ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

戦うウチナーンチュ

2013年04月05日 | 通信-音楽・映画

 雨の日にもやることがあり、晴れた日は畑が忙しい。そのため映画を観に行こうなどと思う余裕も無い。であったが、2月に1本観た。埼玉の友人Kから桜坂劇場の只券を貰ったからだ。観たいと思う映画をやっていた。以前観た映画『ラブ沖縄』、その続編。
  続編の『ラブ沖縄』、大半は前作のあらすじで、それにオスプレイ反対運動が加わったものであった。結果の見えない、というか、巨大な力にいずれ押し切られるであろうという憂鬱感が残ったが、ライオンに立ち向かう子羊たちの姿に胸が熱くなった。平和と安全のために戦っている人達がいる。ウセーられている(バカにされているという意のウチナーグチ)沖縄人の怒りを体を張って叫んでいる人達がいる。
 そう、沖縄は米国、及び日本政府にウセーられているのだ。「嫌だ」と言っているのにオスプレイを配備され、「ならば夜間飛行はしないなどの運行ルールは守ってくれ」と言っても米軍は無視し、日本政府は「ルール違反の明確な証拠が無い」と逃げる。それは逃げながら、辺野古の基地建設や高江のヘリパッド建設は断固進めようとする。まったく、沖縄人は嫌なもの押し付けても許される人種とでも思っているのだろうか。
          

  映画館へ映画を観に行く余裕は無いが、その代わり、近く(徒歩3分)の図書館からビデオやDVDを借りての映画は最近よく観ている。古い(戦前から戦後すぐの頃)邦画、私が若い頃の名作映画、最近の邦画などを観ている。今年三ヶ月間で18本の映画を観ているが、その中で2度繰り返して観た作品が一つだけある。『カメジロー』。
 戦後、沖縄のために闘い続け、米国から嫌われ、市民から愛され、沖縄で最も信念と気概と愛のある政治家、瀬長亀次郎。映画『カメジロー』はその瀬長亀次郎の半生を描いた半ドキュメンタリー。亀次郎を津嘉山正種が演じているが、亀次郎本人も古いフィルムの中に何度も出てくる。その顔、私もよく覚えている愛すべき顔。

 私は正義というものを子供の頃に「鉄腕アトム」などから学んでいるが、中学生になって映画が好きになって、特に西部劇が好きになって、正義というものをジョン・ウェインやジェームズ・スチュワートなどから学んだ。で、「アメリカは正義の国なんだ」と思い込んでしまった。「いや、そりゃちょっと違うみたいだぞ」と思うようになったのは沖縄の祖国復帰後、私が少し政治にも興味を持つようになった浪人生の頃になる。
 少なくとも沖縄では、アメリカはスーパーマンやポパイのような正義の人では無い。ジョン・ウェインやジェームズ・スチュワートが言っていた「ジャスティス」を沖縄には持って来ていない。もちろん、沖縄にいた(あるいは、いる)全てのアメリカ人がそうだとは言わないが、彼らは子供の頃に正義を学ばなかったのかもしれない。

 映画『カメジロー』には、軍用地に関する(土地強制収用など)あれこれでの米軍の傲慢な行いや、米軍人が沖縄の少女を強姦殺人したこと、それでも罰せらないなどといった事が映される。それらは私も知識として知ってはいたが、改めて怒りがこみ上げる。
 当時、アメリカはウチナーンチュを虫けら扱いしていた。ウチナーンチュはしかし、闘った。そのお陰で現状は当時より良くなっていると思う。でも、まだ舐められている。正義のジョン・ウェインは最後には勝つ。沖縄もそうなってくれることを願う。
          

 記:2013.4.5 島乃ガジ丸


ドライブインレストラン

2013年04月05日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 ウチナーンチュの洋食屋

 私が若い頃(30年くらい前)まではあちらこちらにあったドライブインレストラン、ドライブインというシステムのレストランはさらに増えているかもしれないが、ドライブインレストランと店名に冠が付いている店は、今はだいぶ少くなった。
 恩納村から名護市までの海岸沿いにはビーチやキャンプ場が多くあり、若い頃(40年くらい前)は海水浴やキャンプでその辺によく行っていた。その途中の恩納村山田にドライブインレストラン(店名は覚えていない)があって、その頃、そのレストランには何度も行っている。そこはたぶん、今もあると思う(2013年3月現在未確認)。

 恩納村山田は沖縄島の西海岸にある。西海岸は那覇から国道58号線(復帰前は1号線と呼ばれていた)がほぼ海岸沿いに走っている。その58号線沿いにはドライブインレストランがいくつもあったように記憶している。浦添市牧港の一軒と嘉手納町の一軒(どちらも名前は覚えていない)には入って、食事したことがある。
 沖縄島東海岸沿いには国道329号線が走っており、その道沿いにもドライブインレストランはあった、たぶんいくつもあったはず。ただ、「ドライブインレストラン」と店名に冠が付いている店で、私が覚えているのは中城村にあった一軒のみ。

 恩納村山田にあるドライブインレストランは、名前は覚えていないが何度も行っているので良く覚えている。もう一ヶ所、海端では無いが2、3度行ったのをよく覚えているドライブインレストランがある。南風原町にある店。近くに母の実家があり、何かの用事で母の実家へ行った時、「夕食はあそこで」となったのだと思う。
 南風原町にある店は「南風原ドライブイン」という名で、私が高校生の頃にはあった。我が家は、父は真面目で母は働き者だったのでそう貧乏では無かったが、母は信心深く、慎ましく、質素倹約を良しとしていたので、毎度の食事に贅沢なものはそう出なかった。ビーフステーキは滅多になく、トンカツがたまにで、天ぷらが時々、概ねはチャンプルーやオーハンブシー、トゥイ(鶏)ぬ汁、ソーキ汁など沖縄料理であった。なので、レストランで洋食となると、高校生は「腹一杯食ってやるぞ」とほくそ笑んだ。

  ドライブインというシステムでないレストランも当然多くあっただろうが、例えば、那覇市のメインストリート国際通りなどにあったと思うが、三越(当時は大越という名)や山形屋、リウボウなどのデパートにもあったと思うが、そういったところへは行った記憶が無い。いや、デパートのレストランでカレーライスやオムライスなどを食べたかもしれないが、「わーい、ご馳走だ!」と少年が涎を垂らすような食事は記憶に無い。
 南風原のドライブインレストランに入って、「食べたいもの注文していいよ」と言われたら、前にも書いたが、少年には憧れのメニューがあった。Aランチ。これは間違いなくご馳走だった。牛、豚、鶏と三拍子揃った肉、肉、肉。夢のようなひと時。

 『沖縄大百科事典』によると、ドライブインレストランの、沖縄での初登場は1953年とのこと。当時アメリカ施政下だったので、アメリカ文化が倭国より早く入り、早く浸透していったと思う。それから60年、今もなお、ドライブインレストランはウチナーンチュの洋食屋として、ずっと存在し続けている。Aランチ(BもCも含めて)も長い間、たぶん30年以上食っていないが、ドライブインレストランも長い間、コーヒーを飲むくらいにしか使っていないが、書いている内に懐かしくなった。
     

 ドライブインレストラン(drive-in-restaurant)
 drive-inは英語で、1に「自動車に乗ったまま見物・食事・買物などのできる映画館・食堂・商店など」(広辞苑)、2に「主に自動車旅行者を対象として、道路ぞいに設けた食堂・土産物店」(〃)のことで、沖縄には1のファストフード店があり、2の「食堂・土産物店」はたくさんある。もっとも、車社会となってからは倭国でも2は普通。
 restaurantはフランス語、食堂のことだが、日本では洋食屋となる。
 『沖縄大百科事典』に「ドライブイン」があり、「自動車に乗ったまま軽食や飲物がとれるレストラン」とある。それから考えると、沖縄ではかつてドライブインと言えばドライブインレストランを指し、「自動車に乗ったまま」だったようである。

 記:2013.3.18 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行