ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

口コミの力

2013年08月16日 | 通信-社会・生活

 テレビを観なくなって2年が過ぎた。それで特に不都合は無いが、先日、友人のKI子とKY子の大熟女2人とランチデートをした時、「Iさん、このあいだテレビで紹介されていたね」とかいう話題になった。Iさんは、我々の共通の友人で、大熟女2人より少し年下の熟女で、その日ランチをした店の店主。私を除く3人はその話題でひとしきり盛り上がった。私は「あー、そうなの」と言ったきりの置いてきぼり。
 昔美女3人の話題の中に入れなかったからといって淋しくは無いし、「よし、テレビを買って、明日からテレビを観よう」なんてこともさらさら思わない。テレビの情報に流されるのが嫌で、2年前の地デジ化以前からテレビはあまり観ていなかった。何年も前からテレビよりもラジオのFMやCDで音楽を聴いている時間の方が多かった。

 女房子供がいないと新聞を読まなくてもいい、という論理が成り立つかどうか判らないが、女房子供のいない私は新聞をほとんど読まない。老眼鏡をかけるのが面倒、新聞代の節約などが理由。ニュースはラジオ、あるいはインターネットで足りている。
 もしも私に子供がいれば、テレビ欄を見ながら「今日は何を観ようか」などと会話し、もしも私に女房がいれば、社会面を読みながら「酷い世の中になったもんだなぁ」などと会話するような気がする。また、チラシ広告などが私の生活に影響を与えるであろう。のんびりしたい休日の朝、女房に叩き起こされる。「あなた、○○スーパーで玉子が半額なんだって、お一人様ワンパックだって、一緒に行くわよ!」なんてことになる。
 「玉子が半額の2パック買えたからといったって、せいぜい200円得するくらいだろう、そのために車を出して、時間をかけて、休日ののんびりという幸せを犠牲にするのかよー!」と私は大いに不満を持ち、「離婚だー!」となるかもしれない。
          

  マスコミの情報の多くは正しいと思うが、胡散臭いことも稀にはある。それはよほど知識があって、よほど深く考えなければ気付かない場合が多いと思われる。その点、口コミは間違った情報も多くあるが、間違っているかどうかの判断がマスコミよりは易しく、情報に流されて誤った道へ進んでしまう可能性もマスコミよりは小さいと思う。
 胡散臭い情報とは概ね政治経済、宗教などについての情報だが、それはさておいて、日常生活で頻繁に使うものの情報における口コミの力について自論をほんの少し。

 スーパーのチラシに踊らされて、女房は亭主のささやかな幸せをも奪おうとする。女房のいない私であっても、新聞やテレビのそういった情報は煩いと思う。
  そんな情報より私には私のお気に入りがある。そして、お気に入りの玉子はなかなか手に入らない。お気に入りの玄米も一時期、半年前ほど店頭から消えた。お気に入りのモナカは一年以上見ていない。私のお気に入りは、テレビのコマーシャルには全く出ない。その他、新聞、雑誌など、他のマスコミにも載っていない。それなのに、それらは品不足。おそらく、口コミでその良さが広がるみたいだ。その点で、私は口コミの力を信頼している。
 さらに言えば、マスコミより口コミからの情報が概ね面白く、概ね実践的で役に立つ。近所の先輩農夫たちから私はたくさんの良い情報を頂いている。「この干ばつ、どうしたらいい?」と訊いたら、「どうしようもない」との答え、・・・大いに納得。
          

 記:2013.8.16 島乃ガジ丸


想い出したくないこともある

2013年08月16日 | 通信-沖縄関連

 夏が来れば想い出す、だろうなぁきっと。6月23日は沖縄地方梅雨明けの平年値、梅雨が明けると夏になる。そして、6月23日は慰霊の日でもある。沖縄戦で組織的戦闘が終わった日、もう死の恐怖に晒されなくて済む、と当時生きていた人々が安堵した日。当時生きていて今も生きている方々はそのことをきっと想い出すんだろうなぁ。
 昨日8月15日は太平洋戦争終結の日、1945年6月23日に生きていたウチナーンチュ同様、1945年8月15日に生きていたヤマトゥンチュ(大和人)の方々も「あぁやっと今日から枕を高くして寝られる」と安堵したであろう。

 1945年、父は14歳であった。15歳から動員されるという鉄血勤皇隊に入隊間近だったらしい。沖縄戦を記録した写真集には13歳の勤皇隊少年もいたので、志願すればその歳からでも入隊できたのかもしれない。志願しなかった父はしかし、けして臆病者では無い。志願するほど戦が好きではなかっただけのことであろう。
 その年の梅雨時、激戦地となった南風原に住んでいた父とその家族、私から見ると祖父母と伯母(父の姉)たち一家は家を捨て、南へ逃れて行った。逃れ逃れて摩文仁へ辿り着いた。摩文仁から先は海しかない、岸壁の海、そこが最後の地であることは、海へ身を投げる人々を見て、父も悟ったらしい。「もはやこれまで」と祖父は言い、「わしらも飛び込むぞ(もちろんウチナーグチで)」と決意したらしい。
  ところが、一家は飛び込まなかった。何故か?・・・父から聞いた話で本当かどうか、冗談で言ったのか定かではないが、理由はこうだ。「みんな、ちょっと待て、飛び込むのは待て、わしは帯を忘れてしまった。帯を締めずに死んで、そんな恰好で屍を晒しては武士の恥である。家に帰ろう、帯を取りに行こう」と祖父が言ったとのこと。
 で、家に帰る途中、アメリカ軍に見つかり、あっさり手を上げ捕虜になったらしい。というわけで、一家は死なずに済んだ。その後、一家は頑張って働いて、父も就職でき、結婚もでき、お陰で、私もこの世に生まれることができたわけである。
          

 今年(2013年)6月の末に南風原文化センター、及び沖縄陸軍病院南風原壕群跡を訪ねた。そこは祖父一家が戦前戦中、そして、戦後のしばらく住んでいた場所から車だと5分とかからない場所にある。南風原はあちらこちらが激戦地で、沖縄陸軍病院南風原壕では悲惨な出来事があった、などということを何かの本で読んで知っていた。
  何かの本で知ったことは他にもある。沖縄では「日本軍にスパイ扱いされた、自決を強要された、壕から追い出された、レイプされた」など日本軍は悪い奴らだったという情報が多いが、自決を覚悟した女学生たちに「生き延びるんだ」と諭して、自らは特攻していったサムライもいたらしい。当然だ。日本にはサムライの文化がある。
 沖縄陸軍病院南風原壕群跡の中を案内してくれた年配の女性に訊いた。「日本の軍人にも民間人を守る立派な人も多くいたんですよね」、「それはもちろんです」、「なら、ウチナーンチュにも我が身を守るために酷いことをした人もいるんじゃないですか?」、「それももちろんです。嫌なことは言いたくないから表にはあまり出ないんでしょう」とのことであった。悲惨な毎日の中で、そりゃあ言いたくないこともたくさんあろう。見たこと聞いたことで想い出したくないことはうんとあろう。同情する。合掌。
          

 記:2013.8.16 島乃ガジ丸


沖縄陸軍病院南風原壕群跡

2013年08月16日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 戦跡として有名な糸満市にある『ひめゆりの塔』は、看護補助要員として動員された女学生で戦死、または自決した方々を慰霊するものだと聞いている。「ひめゆり」は彼女達がひめゆり学徒と呼ばれたからとも聞いていた。しかし、今回調べて分かったことだが、それは彼女達を偲んで、あるいは称えて、戦後つけられた名前とのことであった。
  ひめゆり学徒たちが最初に勤労奉仕に従事した場所は南風原陸軍病院だということをおぼろげに記憶していて、そこへ行ってみたいと前から思っていた。で、2007年8月23日のお昼頃、仕事が近くであったこともあり、私は南風原陸軍病院壕跡を訪れた。
 辺りを散策したが、壕の入口は見当たらなかった。入口らしき所があって、その横に立てられていた看板の文章を読むと、「現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。」とあり、「南風原文化センター 2002年」と書かれていた。私が訪れた2007年は、まだその準備ができていなかったと想像された。

  今年(2013年)6月末、実家にあった戦争遺留品を寄贈するため南風原文化センターを訪ねた。そこは黄金森という名の広い公園の中にあり、建物はまだ新しかった。訊けば2009年にオープンしたとのこと。黄金森公園の中には沖縄陸軍病院南風原壕群跡もあるとのことだったので、寄贈を済ませ、センターを出て壕跡の見学に行った。
 「センターのすぐ後ろに飯上げの道という名の坂道があります。それを上っていけば壕跡に行けます。あそこです」とセンターの係りの人がわざわざ外に出て指差してくれた。飯上げの道とは、食事を作ったのはセンターのある辺りにあり、そこから飯を運んだところからきている名のこと。太陽がガンガン照り付ける暑い中、坂道を上った。

  入口からすぐ、10mも行かない内に見覚えのある景色があった。「悲風の丘」と看板があり、それで6年前の記憶が蘇った。「ここは1度来ている」と気付いた。「確か、南風原陸軍病院で亡くなった人々を慰霊する塔のあるところだ」と中へ入ると、その通りであった。2007年当時は原野のような中にあった塔であった。
 そこから壕跡へ向かう道も整備されていて全く見覚えのない景色が続いた。壕跡の入口も整備されていて案内所となっている建物も建っている。私が2007年8月に見た壕跡の標識が立っていたところはどこなのか全く見当がつかなかった。後日、センターの人に写真(2007年8月の)を見せると、「そこは今の出口辺りに立てられていたものだと思います」とのこと。出口辺りを見ると、そうかもしれない地形であった。

  沖縄陸軍病院については、南風原文化センター作成のチラシの説明をそのまま拝借。
 沖縄陸軍病院(球18803部隊)は1944(昭和19)年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。
 6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍空襲によって施設が焼却し、南風原国民学校校舎に移転した。それ以降、第32軍野戦築城部隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が造られた。
 米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
 4月1日に米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出された。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
 南風原町は1990(平成2)年戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。

 沖縄陸軍病院南風原壕群跡
 第二外科群の内、現在、20号壕が整備され公開されている。
 見学には予約が必要で以下の決まりごとがある。
 ・一度に入る人数は10名以内
 ・全員必ずヘルメットを着用(現場無料貸出)
 ・懐中電灯を使用(現場無料貸出)
 ・常駐ガイドが案内する
 ・見学時間は1グループ20分程度
 これらの他、私がガイドから注意されたこととして、
 ・ガイドの指示に従う
 ・壁や天井に触れない(土が崩れやすいとのこと)
 ・天井の低い所があるので頭上に注意する
 なお、写真撮影は許されている。私は手にカメラを持ちながら、撮り忘れた。

     
     
     
     
 記:2013.8.14 ガジ丸 →沖縄の生活目次