テレビを観なくなって2年が過ぎた。それで特に不都合は無いが、先日、友人のKI子とKY子の大熟女2人とランチデートをした時、「Iさん、このあいだテレビで紹介されていたね」とかいう話題になった。Iさんは、我々の共通の友人で、大熟女2人より少し年下の熟女で、その日ランチをした店の店主。私を除く3人はその話題でひとしきり盛り上がった。私は「あー、そうなの」と言ったきりの置いてきぼり。
昔美女3人の話題の中に入れなかったからといって淋しくは無いし、「よし、テレビを買って、明日からテレビを観よう」なんてこともさらさら思わない。テレビの情報に流されるのが嫌で、2年前の地デジ化以前からテレビはあまり観ていなかった。何年も前からテレビよりもラジオのFMやCDで音楽を聴いている時間の方が多かった。
女房子供がいないと新聞を読まなくてもいい、という論理が成り立つかどうか判らないが、女房子供のいない私は新聞をほとんど読まない。老眼鏡をかけるのが面倒、新聞代の節約などが理由。ニュースはラジオ、あるいはインターネットで足りている。
もしも私に子供がいれば、テレビ欄を見ながら「今日は何を観ようか」などと会話し、もしも私に女房がいれば、社会面を読みながら「酷い世の中になったもんだなぁ」などと会話するような気がする。また、チラシ広告などが私の生活に影響を与えるであろう。のんびりしたい休日の朝、女房に叩き起こされる。「あなた、○○スーパーで玉子が半額なんだって、お一人様ワンパックだって、一緒に行くわよ!」なんてことになる。
「玉子が半額の2パック買えたからといったって、せいぜい200円得するくらいだろう、そのために車を出して、時間をかけて、休日ののんびりという幸せを犠牲にするのかよー!」と私は大いに不満を持ち、「離婚だー!」となるかもしれない。
マスコミの情報の多くは正しいと思うが、胡散臭いことも稀にはある。それはよほど知識があって、よほど深く考えなければ気付かない場合が多いと思われる。その点、口コミは間違った情報も多くあるが、間違っているかどうかの判断がマスコミよりは易しく、情報に流されて誤った道へ進んでしまう可能性もマスコミよりは小さいと思う。
胡散臭い情報とは概ね政治経済、宗教などについての情報だが、それはさておいて、日常生活で頻繁に使うものの情報における口コミの力について自論をほんの少し。
スーパーのチラシに踊らされて、女房は亭主のささやかな幸せをも奪おうとする。女房のいない私であっても、新聞やテレビのそういった情報は煩いと思う。
そんな情報より私には私のお気に入りがある。そして、お気に入りの玉子はなかなか手に入らない。お気に入りの玄米も一時期、半年前ほど店頭から消えた。お気に入りのモナカは一年以上見ていない。私のお気に入りは、テレビのコマーシャルには全く出ない。その他、新聞、雑誌など、他のマスコミにも載っていない。それなのに、それらは品不足。おそらく、口コミでその良さが広がるみたいだ。その点で、私は口コミの力を信頼している。
さらに言えば、マスコミより口コミからの情報が概ね面白く、概ね実践的で役に立つ。近所の先輩農夫たちから私はたくさんの良い情報を頂いている。「この干ばつ、どうしたらいい?」と訊いたら、「どうしようもない」との答え、・・・大いに納得。
記:2013.8.16 島乃ガジ丸