ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

勝つと思うな

2014年10月17日 | 通信-その他・雑感

 昔の歌謡曲、美空ひばりが歌う『柔』、子供の頃に聞いて、その後、テレビの「懐かしの歌謡曲」とか何とかいう番組で耳にしているので、そのメロディーはよく覚えている。ワンコーラス歌える。その歌詞もいくらか覚えている。

 勝つと思うな 思えば負けよ ・・・この胸の
 奥に生きてる柔の道は 一生一度の・・・・・・

 脳味噌の奥を穿ったが、・・・・・・の箇所は思い出せなかった。ともかく、その出だし「勝つと思うな思えば負けよ」が子供の頃から理解できなかった。
 歌の材は柔、つまり柔道なので格闘技だ。「勝とうと思うとその欲が不自然な動きをうみ、却って負けてしまう、自然体の方が良い」ということかと思ったが、「勝とうという意欲が無ければ勝てないじゃないか」と自身で反論し、スポーツの世界では「勝つという強い意志が勝利を呼ぶという人もいるじゃないか」とも思った。後期オジサンという年齢になった今、改めて考えてみても、まだ、どういうことなんだ?と判断できない。勝負の世界での「勝つと思うな思えば負けよ」の真意を私は今も理解できていない。

 春、畑の作物は害虫に酷くやられ、期待していた生産は予定の、大まかだが5分の1ほどしかなかった。梅雨時は日照不足で作物の成長は鈍く、梅雨が明けてやっとバナナもパパイアも果実が育ち、夏の商品となるゴーヤーも実を着け始めたと思ったら、7月の台風8号によってバナナもパパイアもゴーヤーも全滅となった。
  「このままでは生きていけない」と私は危機感を持っている。だからといって、害虫退治に殺虫剤を使うとか、台風対策に多額の資金が必要なハウスを建てるとかは考えていない。無農薬無施肥の自然栽培で何とか生きていく方法を模索し続けるつもり。

 春、作物を害虫にやられた時、「何糞、今に見ていろ、いつか勝ってやる」と思い、台風8号にやられた時も「何糞、台風にも負けない栽培方法を見つけて、台風にも勝ってやる」と思った。であったが、先日(10月11日~12日)の台風19号の襲来で、またもバ ナナ、パパイアなど畑の作物がやられた時は少し違った。
 台風の後始末、バナナやグヮバの立て起こしなどをしている時にふと、冒頭の「勝つと思うな、思えば負けよ」の歌を口ずさんでいた。「思えば負けよの後は何だったっけ?」と考えている内に、考えは別の方向へ行って、「相手は自然だぜ、俺よりうんと長く生きている奴だぜ、それに勝とうなんて傲慢だぜ」となった。
 「勝たなくてもいいんじゃないか、いや、元々勝負しなくていいんじゃないか、それはあるもんだと思って、逆らわなくていいんじゃないか」とまで考えが進んだ。作物が虫に食われるのであれば、食われないように防虫ネットを張る。それは虫と勝負しているんじゃなくて、虫をかわす、振りかかる火の粉を払うみたいなもの。
 喧嘩しない、闘わない農夫は何をするか?淡々と農作業を続けるのみ。台風に倒された果樹を立て起こす。防虫ネットを張る。邪魔な雑草を抜く。畝を立て種を播く。そういったことを淡々とやっていこう。そうやっていつか、生きる術は見つかるはず。
          
          

 記:2014.10.17 島乃ガジ丸


七転び転び

2014年10月17日 | 通信-その他・雑感

 9月27日、友人Iの結婚披露パーティーが東京の国立市で行われ、私も参加した。参加して、皆の前で沖縄民謡を1曲披露した。1曲披露はパーティーの3週間ほど前に新郎Iと共通の友人であるT女史から依頼されていた。その数日後から練習した。
 私が選んだ1曲は『べーべーぬ草刈いが』という子守唄。前奏、唄、エンディングまで30秒ちょっとの短い曲。ボロが出る前に終わらそうという魂胆。サンシンの伴奏も弾き易い、覚え易いように自分で考え、毎日では無いが少しずつ練習した。練習でも完璧に弾けるまでにはならなかったが、テキトーにはできるようになっていた。
 ウチナーンチュのテーゲー(大概、適当という意)性質を正しく受け継いでいる私なので、「テキトーに弾けるようになった」は「人前で弾いても大丈夫」となり、本番でも特に緊張することはなかった。もちろん、テキトーなのでいくつかのミスはあった。

 ウチナーンチュはテキトーと言ったが、ウチナーンチュのプロのミュージシャンはそうではないはず。プロはプロだ、完璧に弾けるよう練習もしている。じつは、こんな私でもいつかはプロのようにミスなく完璧に弾けるようになりたいと思っている。弾きたい曲も決まっている、『ヒヤミカチ節』。全然練習していないので、達成は難しいが。
 私の好きな沖縄民謡『ヒヤミカチ節』。既にガジ丸HPの2011年7月付記事『お勧め民謡 ヒヤミカチ節』で紹介済みで、その中に歌詞を少し載せている、その6番、
 ナナクルビ(七転び)クルビ(転び) ヒヤミカチ ウキリ(起きなさい)
 我シタ(我らの)クヌ(この)ウチナー シケ(世間)にシラサ(知らせよう)
 「七度転んでも えいっと起きなさい 我らのこの沖縄を世間に知らせよう」といった意味。戦後の荒廃した沖縄を見て作られた唄だ。早い曲で、サンシンの音も多くて弾くには難しい曲、だけどいつかはと思っている。思ってはいるが・・・はてさて。

  10月11日から12日にかけて沖縄を襲った台風19号、強烈な風が、前代未聞と言ってもいい位長い時間吹いていた。前日10日のお昼に台風対策を済ませた畑、その後は「どうか無事でありますように」と祈るのみ。作物がダメになるのはまだいい、種を播き直せばいい。心配なのは畑小屋、吹き飛ばされていたらその修復に金と時間がたっぷりかかる。もしもその時は、『ヒヤミカチ節』を歌いながらコツコツやるしかない。
 祈りながら12日の夕方、まだ台風の吹き返しの風が強く吹く中、畑を見に行った。
 バナナが数本傾いていた。パパイアの葉 が吹き飛ばされ、台風8号による痛手からやっと立ち直って花を着け、実を着けていたのにそれらも吹き飛ばされた。グヮバが1本倒れていた。たくさんの実を着けてくれていたアセロラが根こそぎ倒されていた。やっと実を着けていたヘチマも吹き飛ばされ、ゴーヤーもナスもピーマンもオクラもほぼ全滅。
 それでも、7月に襲来した台風8号に比べると被害は少ない。被害は少ないが、これでまた当分の間、畑からの収入が得られないこととなった。くそーっ。しかし、ここで挫けてはいられない。立ち直ってやる。七転び転んでも負けねぇぞ。
 「負けねぇぞ」と一旦は思ったのだが、バナナやグヮバの立て起こしなどをしている時にふと、「勝つと思うな、思えば負けよ」という美空ひばりの歌『柔』が頭に浮かび、何で俺は自然相手に闘っているんだろう?と疑問を持った。この話は次に続く。
          
          

 記:2014.10.17 島乃ガジ丸

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行 
 『正調琉球民謡工工四』第二巻


東京岐阜お詫び行脚の旅その1-東京編

2014年10月17日 | ガジ丸の旅日記

 1、序章
 2006年10月、北海道を旅した。「旅こそ人生」と思うくらい旅好きな私はその年まで年に1~2回は県外の旅をしていた。県外の旅、亜熱帯の沖縄には無い景色が倭国では見られるからだが、旅の先々で土地の人々と会話するのも私は好きである。
 翌年2007年の春に母が入院し、秋には他界し、2010年の春には父が倒れ、まもなく他界し、その後は財産管理、家屋敷の管理、財産処分などに時間を取られ、県外脱出する時間の余裕も、心の余裕もなかった。今年の2月に家屋敷の処分が済んで、やっと心に余裕ができた。お金の余裕は無いのだが、懸案事項もあったので、思い切って旅。

 懸案事項とは、家屋敷を失ったこと、トートーメー(位牌)を寺に預けたことなどを、父の姉である岐阜の伯母、母の弟である東京の叔父に直接会って、報告しなければと思っていた。家屋敷を失ったこと、トートーメー(位牌)を寺に預けたことを、私はブログなどで「不肖の息子は」とか、「甲斐性無しの息子は」とか書いているが、実は、私自身はそれが悪いこととは思っていない。「しょうがないこと」という認識。
 それでも、「弟が努力苦労して手に入れた家屋敷が無くなるのは寂しい」と伯母は思っているのではないか、「姉が努力苦労して手に入れた家屋敷が無くなるのは寂しい」と叔父は思っているのではないかと、それが少し気にかかっていた。
 東京在の友人Iが9月27日に国立で結婚披露パーティーを開くというので、それにもついでに参加することにし、気にかかっていたことを解消するための旅。

 2、気持ちの良いホテル
 9月26日、昼過ぎに羽田着。羽田からバスで吉祥寺駅に直行し、若い頃(35年ほど前)住んでいた懐かしの吉祥寺駅近辺を散策して、夕方には京王線府中駅近くにあるホテルに入る。ホテルの名前は「HOTEL松本屋1725」。
 松本屋は小さいけれど、外観はスッキリしていてきれい。シングルルームの室内もきれいであった。受付にいたのは若い(40歳前後)男性。応対が丁寧で気持ちが良い。

  翌朝、朝食付きの予約をしていたので、1階にある食堂へ行く。食堂も小さい。20名ほどの席しかない。小さなカウンターに並べられていたのはパンが3種と、小さなカップに入ったゴボウサラダ、ジャムとマーガリン、果物が少々、カウンターの傍にコーヒーメーカーがあり、その傍のテーブルに牛乳がある。メニューはそれだけ。
 それだけでは物足りないと思う人も多いであろうが、私は大いに満足した。パンは3種類あり、そのどれもが美味かった。それだけで私は大満足。ワイン飲みたいと思ったほどだが、朝なのでそれは我慢。ゴボウサラダも美味しかった。
          

 松本屋には翌日も宿泊した。28日の朝、あんなに美味しかった朝食を私は食べなかった。府中在の従兄Hが朝迎えに来て、朝食は別の場所でとなったのだ。しかし、あのパンを食べないのは惜しい。で、厨房を1人で切り盛りしている若い女性に頼んだ。「美味しいパンなので持ち帰りたい」と。彼女はニッコリ笑って、パンを袋に詰めてくれた。
 ちなみに、裏付けは取っていないが従兄Hからの情報によると、松本屋は元々老舗の旅館であった、息子の代になって建て替えられビジネスホテルになった、老舗は接客が丁寧で評判も良かったとのこと。現松本屋もその伝統を受け継いでいるみたいである。

 3、夢を追う老後
 26日、夕方6時、約束通り従兄Hがホテルに迎えに来て、二人で近くの居酒屋へ。彼と会うのは、私の父が存命中、彼が沖縄へ仕事で来て、父に会いに来てくれた。その時以来だから5~6年ぶりだろうか。彼とは時々メールでやりとりしているので、父が死んだことも、家屋敷を手放したことも、私が農夫をやっていることも知っている。

 飲みながらあれこれたっぷり会話する。メールで彼の近況も多少は知っていたが、長く勤めていた会社を定年退職した、まだ働くつもりで仕事を探している、田舎(岐阜県関ケ原)にはたぶん帰らない、などといったことを新しく知る。
  数ヶ月前に彼から来たメールにもあったが、「音楽を復活するつもりだ」についても彼は熱心に語った。若い頃バンドを組んで音楽をやっていたのは、私が大学進学で東京暮らしをしている頃に聞いて知っていた。私も大学の頃の2~3年はバンドを組んでいた。私の所属するバンドは一度も他所で発表することなく、大学卒業と共に自然解散した。Hのバンドが活躍していたかどうかは聞かなかったが、同じく自然解散したのであろう。
          
 Hが言う「音楽を復活する」というのは、作品を作って発表することのようだ。定年退職後に若い頃抱いていた夢を追う。良いことだと私は思った。そういう私もまた、彼と同じく数年前まで楽曲を作っていた。その楽曲は友人のKがバンドを作って発表することになっているが、その方向に動いてから3年、まだ、ちっとも日の目をみていない。
 老後は夢を追う季節なのだと思う。就職して、夢を追う余裕もないほど働かされて、結婚してさらに時間を失い、定年になってやっと得た自由時間、夢を追うに最適。

 4、できる息子
 27日、朝9時、沖縄在の従妹Nの夫で、東京で自営業をしているAとホテル近くで落ち合う。前日の約束では昼休みに会うことになっていたが、彼の仕事の都合で9時となった。ホテルの食堂でしばしユンタク(おしゃべり)。
  彼ら家族が東京へ出たのはいつ頃だったかはっきり覚えていないが、長男のSが小学生だった頃は沖縄に居を構え、そこで何度か会っている。
 「Sはいくつになった?」
 「もう35だ。」
 「えーっ、もうそんなになるのか。結婚は?」
 「結婚、まだだよ、しないかもしれないなぁ。」
 「仕事はちゃんとしている?」
 「うん、もう現場を任せられる。今日も俺とは別の現場をみている。会社経営のことも教えている。あと2~3年したら彼に会社を任せ俺は引退だ。沖縄に帰るつもりだ。」
 などといった話をした。女房(私の従妹)と彼女の姉(私の従姉)が実家の処分で揉めていることについて彼の意見を求めたが、「面倒臭い」の一言でそれは終わった。
          

 5、働く老人
 27日、朝10時過ぎ、Aと別れた後、高尾へ向かう。その日は八王子の叔父の家に行くことになっていたが、西八王子駅で叔父と待ち合わせた時間は午後3時、それまでたっぷり時間がある。何しようかと考えていたら「高尾山がいいよ」とAが勧めてくれた。
  高尾山に登った。途中までロープウェーで行ったのだが、それでも山頂まで行ってロープウェーの駅に戻るまでの歩きで疲れてしまった。土曜日だったこともあり、山道を歩く人も多く、山頂で休んでいる人も多く、景色を見るより人を見ている方が多かった。人ゴミが嫌いで、自然の景色が好きな私はそれによって疲れがさらに増したと思う。
          
          

 西八王子駅には約束の3時ちょい前に着く。駅前で待っていると黒い車が私の正面に停まって、助手席の窓が開き、聞き覚えのある声で名前を呼ばれた。叔父の女房H叔 母さんだった。運転していたのは娘(私の従妹)のY、ほどなく叔父もやってきて、4人で叔父夫婦の家に行く。途中、スーパーに寄って、叔母がビールとつまみを買った。
 「普段は発泡酒なんだけどね、あなたが来たから今日はビールよ」と叔母が言う。私も普段は発泡酒で、ビールなんて滅多に飲みませんと言おうと思ったが、「ありがとう」とだけ言い、気になっていたことを叔父に訊いた。
 「もう、働かなくてもいい歳でしょう、何でバイトなんかしているの?」と。叔父が口を開く前に叔母が答えた。
 「まだ、家のローンが残っているのよ。働いてもらわなくちゃ。」とのこと。叔父は確かもう70歳を超えている。それでも働く必要があるのか、財産を残すためにか、厳しい老後だなぁと思った。隣の叔父の顔を見ると、苦笑いをしていた。

 6、小失敗いくつか
 日付は戻るが、26日、那覇空港からの出発時、搭乗券を胸ポケットに入れて保安検査のゲートへ行く。「搭乗券を見せてください」と係員が言うので、ポケットから出して見せた。搭乗券を手に持ったまま、荷物を背負って搭乗口へ歩く。搭乗口近くの椅子に腰掛けた時、手に持っていたはずの搭乗券が消えているのに気付いた。歩いてきた所を戻って探したが無かった。航空会社の人に訊くと、「身分を証明するものがあれば乗れますが、搭乗は一番最後になります」とのこと。ホッと安堵。これが小失敗の1つ目。

 叔父の家からの帰り、駅まで従妹のYに送って貰った。その間の10分ほど彼女とじっくり話ができた。Yとは私が大学の頃に会って以来だから35年ぶりくらいだ。当時彼女は小学生、その頃から可愛かったが、今は美人になっていた。その頃、彼女は私に懐いていたので、当然、彼女も私のことはよく覚えていて、楽しい10分間だった。
  叔父の家では叔母のおしゃべり(昔からよくしゃべる人だった)に圧倒されて、帰りの車の中では楽しくて、すっかり忘れてしまったが、叔父たちの写真を撮ること、叔父のマイホームの写真を撮ることを忘れた。これが小失敗の2つ目。
 同じ理由ですっかり忘れてしまったが、叔父たちへ沖縄土産を差し上げるのを忘れた。わざわざ荷物になるのを持ってきたのに。これが小失敗の3つ目。
 もう一つ、叔父の家に行くと計画してから考えていたことだが、もしも、従妹のY、あるいは従弟のRに会えたなら、彼女、または彼の連絡先、メールアドレスを訊くつもりであった。叔父は電話で話した時、トンチンカンな受け答えになったりする。叔母は同じく電話で話した時、関係無いおしゃべりが多くなる。なので、これから連絡する時は彼らの娘や息子とメールでやりとりしようと思っていた。それも忘れた。小失敗の4つ目。
          

 Yに送られて京王八王子駅から府中へ向かう。その日、夕方6時から友人Iの結婚披露パーティーがあった。府中駅に着いたのは5時頃、ちょうどその時、新郎のIから電話が入った。「今、どこにいるんですか!?」、「今、府中に着いたところ。」、「もう始まってますよ!」、「えっ!6時からだったのでは?」、「4時半開始ですよ、そのままそこからすぐにタクシーで来てください!」という会話。
 私は16時を6時と勘違いしてしまったようだ。高尾山登山でたっぷりの汗をかいたので、ホテル行ってシャワーを浴びて、着替えて・・・のつもりだったが、彼の要請通り、駅前からタクシーに乗り、パーティー会場へ向かった。小失敗の5つ目。

 7、熟年結婚で民謡披露
 汗に濡れたシャツのまま、普段着のまま、髭も剃らずにパーティー会場へ1時間ほど遅れて着く。会場は10卓ほどあり、私が案内されたのは、新郎馴染みの沖縄居酒屋に集まる仲間達のテーブル。会場には新郎以外に私が知っている人はただ1人、新郎が習っている沖縄民謡の師匠M女史の友人で、同じ沖縄居酒屋の常連でもあるT女史。彼女が私の席の隣だったので、パーティーが始まって1時間のあらましを聞き、同じテーブルにいる面々を紹介してもらった。で、皆と話ははずみ、私は楽しく過ごせた。

  その日の3週間ほど前にT女史から電話があり、「パーティーの開催日が急に変更されたので、Iさんの師匠のMさんやその仲間の芸達者たちがスケジュールが合わなくて今回参加できない。Iさん(新郎)はせっかく沖縄民謡を習っているし、沖縄民謡の余興をやりたいと思う。ガジ丸さんやってくれませんか?」と。「私は唄もサンシンも下手糞なので遠慮したいが、ウチナーンチュの私が下手糞なのに倭人のIさんが上手ということで、Iさんの前座、引き立て役としてならやりましょう」と、結局は承諾した。
          

  パーティーのそろそろお開きになる頃に新婦の方の友人達の余興があり、それが済むと司会者が「新郎の方からもお一人、わざわざ沖縄からいらっしゃって沖縄民謡を披露してくれるそうです。どうぞ」と名を呼ばれた。「何で一人なんだよ、騙しやがったな」と思いつつ、「わざわざ沖縄からという紹介も拙かろう、いかにも上手みたいに聞こえるじゃねーか」と思いつつ、しょうがなく前に出てマイクに向かう。
 サンシンは新郎が用意していた。「チューニングできないから、予めやっておいて」という条件も彼は無視していて、人前でチューニングという汗をかくことまでやらなければならなかった。それでも少しは練習していた1曲をテキトーに弾き終えた。そして、持っているサンシンを「それでは真打の登場です」と新郎Iに渡した。新郎が唄を披露した後に、「新郎も急に振られて困ったでしょう」と司会者が言っていたので、やはり、新郎が歌うことは予定には無かったみたいである。騙すつもりであったか!と思わぬでも無かったが、大学時代の学園祭で、観客の前でギターを弾いて唄を歌った時以来の人前経験、少し間違えたけど、テキトーでもまあまあ歌えたので気分は良かった。

 新郎は後期オジサンという年齢、新婦は再婚で孫もいる後期オバサンという年齢。「何で今さら結婚?面倒臭くないか?」と私は思うが、新郎Iは楽しそうであった。実は、パーティーは5月に開く予定であった。それが延期されたのは、同じテーブルにいる新郎の飲み仲間達から聞いた噂では、新郎の方が結婚に踏み切れず、延期されたとのこと。マリッジブルーになったみたいである。熟年でもそうなる。それは私にはよく理解できる。生活が一変するのだ、食いたい時に食いたいものを食いたいだけ食うということができなくなるのだ、部屋の中で勝手に屁をこくこともできなくなるのだ、そりゃあ悩むぜ。
          

 8、秋の匂い
 結婚披露パーティーは9月27日、沖縄居酒屋に集まる仲間達はT女史を除いて皆初めましての人達であったが、楽しく会話ができ、良い時間を過ごさせて貰った。新郎から2次会に誘われ、そこには唯一の知人T女史も、同じテーブルにいた人達も参加しなかったが、別テーブルだった新郎の大学時代の友人達と話が弾み、パーティーの最後に上手な沖縄民謡を聴かせ会場を盛り上げてくれたプロのミュージシャンの女性とも話が弾んで、新婦とも初めましての挨拶から話ができ、そこでも楽しい時間を過ごせた。
 その2次会の最中に府中在の従兄Hからメールが入った。「高知から姉のAが来ています。明日の朝食、皆で一緒しませんか?」と。承諾の返信をした。

  で、翌朝、Hが迎えに来て、別のホテルのレストランへ行く。姉のAは、当然ながら私の従姉になる。彼女の結婚式だったか、はっきり覚えていないが、私が学生時代に岐阜で会って以来、35年ぶりくらいになる。テーブルにはもう一人女性がいた。「そちらはI姉さんの娘さん?」と訊くと。「何て失礼な!」と怒られた。隣のHが「俺の女房だよ、昔会っているだろう?」と紹介した。昔、は25年前くらいのこと。35年ぶりのA姉さんはその顔をほのかに覚えていたが、25年前の美女は覚えていなかった。血の濃さのせいか?いやいや、A姉さんは実家に写真もあって、それで見覚えていたのだ。
          

 農夫は早起きである。見習い農夫の私も早起きである。前夜、2次会まで参加して寝たのは12時前だったが、その日の朝も5時過ぎには目を覚ましていた。7時にHが迎えに来るまで30~40分ほどホテルの近所を散策した。金木犀の香りがした。
 金木犀の存在は大学時代にその香りと共に知った。秋の匂いと覚えていたが、沖縄には無い植物なので、金木犀という存在もすっかり忘れていた。今回の旅の初日、井之頭公園を散策している時にそれに気付いたが、府中のホテルの近くに金木犀の並木があった。
 金木犀の軟らかく甘い匂いが私は好きである。何だかほんわかする。会う人々と楽しい時間を過ごし、散歩すれば金木犀の匂い、オジサンは幸せ気分に浸った。
          

 以上、東京岐阜お詫び行脚の旅の前編(東京編)でした。続きは来週。

 記:2014.10.11 ガジ丸 →ガジ丸の旅日記目次


タイワンマルカメムシ

2014年10月17日 | 動物:昆虫-カメムシ・セミ

 タイワンの何故?

 名前にタイワンと名のつく昆虫は多くある。昆虫だけでなく、他の動物にもあり、植物にも多くある。ガジ丸HPで既に紹介したものだけでも、動物ではタイワンキチョウ、タイワンアサギマダラ、タイワンキドクガ、タイワンクロボシシジミ、タイワンエンマコオロギ、タイワンカブト、タイワンクツワムシ、タイワンツチイナゴ、タイワントゲカメムシ、タイワンハネナガイナゴ、タイワンシロガシラ、植物ではタイワンウオクサギ、タイワンクズ、タイワンケヤキ、タイワンハチジョウナ、タイワンフウ、タイワンモミジ、タイワンモクゲンジ、タイワンレンギョウなど。
  それらの記事の中にそれぞれの名前の由来を書いたものがあるが、私はその中でタイワンを台湾としている。それはきっと正しい。であるが、何故台湾かについては「台湾は南方系の意味」と概ね説明している。しかし、それは間違いではないかと最近知った。

 大城安弘著、鳴き虫会発行の『琉球列島の鳴く虫たち』という本の中のコラムの一つに「タイワンについて」という一文があって、その中に「台湾は、第二次大戦前は日本国の領土であり・・・昆虫の調査・研究が推進され、その結果、多くの新種が発見・命名され た・・・台湾で発見された後に琉球列島等からも発見された」とのこと。
 したがって、タイワンは「南方系の」という意味ではなく、「台湾で最初に学術的発見がなされた」ということになる。上記の動物植物のガジ丸記事において、名前の由来の箇所で「南方系の」と書いてあるものは間違いということになる。いずれ訂正したい。

 タイワンマルカメムシのタイワンも「台湾で最初に学術的発見がなされた」からで、これ以降、タイワンと名のつくものがあればそれらもそういうことになる。タイワンと名のつくもの、たぶん、まだまだある。タイワンガザミとかタイワンダイとか。

 
 タイワンマルカメムシ(台湾丸亀虫):半翅目の昆虫
 マルカメムシ科 沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島、台湾などに分布 方言名:フー
 名前の由来、カメムシは広辞苑にあり、亀虫と漢字表記され「頭部の突き出た形がカメに似ていることから」。タイワンマルについては資料が無く正確には不明。マルは体全体の形が丸っこいからであろう。タイワンについては上述の通りだと思われる。
 「平地の草地、灌木林などで多く」とあったが、私の畑では9月1日、9月16日の2度見た。私の畑は平地の草地といえる。さらに「個体数はそう多くなく、局地的な分布」とあったが、小さく、色が黄緑色で草葉に紛れてしまうので見逃していることもたびたびあろう。それも踏まえれば、私の畑は「局地的な分布」箇所となっているようだ。
 体長は4ミリ内外。寄主はマメ科植物、私の畑やその周辺にマメ科植物はあるが、私はシマグワの葉上で見つけた。成虫の出現時期は3月から11月。
 
 横から

 記:2014.10.4 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行
 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』福田春夫、他著、株式会社南方新社社発行
 『琉球列島の鳴く虫たち』大城安弘著、鳴く虫会発行


アカスジカメムシ

2014年10月17日 | 動物:昆虫-カメムシ・セミ

 見た目も不味い

 見た目の不味い食物って何があるだろうかと考えた。例えば、ホヤ、イナゴ、ハチノコなどだろうか?私はどちらかというとゲテモノも食べる方なので、それらも食べる。食べるけど好物ではない。「あっ」と思い出した。見た目の不味い食物、私(に限らずウチナーンチュの多くがそう思うかも)にとってはバイ貝。
 バイ貝ってそもそも何ぞや?と広辞苑を引く。バイを漢字にすると貝となっていて、バイガイという言葉はなく「バイ」とのみあり、「エゾバイ科の巻貝。殻は堅牢で、殻高7センチメートルに達する。日本各地の浅海に産し、肉は食用となる」とのこと。
 見た目は不味いバイ、ではあるが、私はそれを今まで何度も口にしている。沖縄の居酒屋ではあまり見ないが、倭国の居酒屋に入ると、お通しに出てきたりする。食べて不味いとは思わないが、見た目がよろしくないので、自ら進んで注文することは無い。

  倭人にとっては「何でバイが見た目不味いの?」と不思議に思うかもしれない。その訳は、バイの見た目がアフリカマイマイに似ているからだ。
 アフリカマイマイはたぶん倭国にはいないカタツムリの1種。かつて食用として輸入され、沖縄でも勝手に繁殖するようになり、今では野原や畑で大きな顔して存在している。畑の作物を食害する奴として農夫には大いに嫌われている。
 食用としても成功しなかったようで、食べた経験のある人に訊くと「硬くて不味い」とのこと。また、病原菌を持っていて、食べると病 気になることもあるそうだ。
 「硬くて、不味くて、病原菌も持っている」奴なので、その存在が「汚い奴」という印象となって、その見た目も「気持ち悪い奴」となってしまったのだろう。よって、私(たぶんウチナーンチュの多くも)はアフリカマイマイの姿形を見ると不味い物と感じてしまう。アフリカマイマイに似た見た目をしているバイもそうなってしまう。

 アカスジカメムシは「食べるとおいしくないですよというカメムシ類特有の警戒色と考えられている」と『沖縄昆虫野外観察図鑑』にあったが、私には不味そうな奴とは見えない。そもそも、相手は虫なので食べようという気はさらさら無い。当然ながら、その警戒色は人間に対してではなく、他の大型昆虫や鳥類に対するものであろう。

 
 アカスジカメムシ(赤筋亀虫):半翅目の昆虫
 カメムシ科 日本全土、沖縄島、南大東島、八重山諸島などに分布 方言名:フー
 名前の由来、『沖縄昆虫野外観察図鑑』に「体は赤色で、黒縞の縦条があり・・・赤と黒の縞模様」とあって、写真でお分かりのように、黒に赤の縦条と言ってもいい。赤色の縦条からアカスジ、カメムシは「頭部の突き出た形がカメに似ていることから」。
 寄主はセリ科植物で、民家の庭のサクナ(ボタンボウフウ)から、海岸のハマウド、ハマボウフウ、野原のヤブジラミ、畑のニンジン、ウイキョウなどの花に集まるとのこと。私の畑ではサクナの、今満開の花に群れていた。子虫も多くいた。
 体長は9~12ミリ。出現時期は2月から11月。分布は上記の他に国内では久米島、外国では中国、東シベリアなど。赤と黒の縦縞模様がよく目立つが、その模様は「食べるとおいしくないですよというカメムシ類特有の警戒色と考えられている」と『沖縄昆虫野外観察図鑑』にあった。屁は臭い上に、見た目も美味しくないようだ。
 
 子虫

 記:2014.10.11 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行
 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』福田春夫、他著、株式会社南方新社社発行
 『琉球列島の鳴く虫たち』大城安弘著、鳴く虫会発行