今週火曜日(6月23日)は沖縄の慰霊の日であった。その日は(たぶん今でも)沖縄の学校(たぶん役所関連も)は休みである。休みだが、学校からお達しがあり、正午になると子供達は1分間の黙祷を戦争で犠牲になった人達へ捧げる。私も子供の頃は素直だったので学校のお達しに従い、どこかで遊んでいても黙祷はやった。が、大人になってからはほとんどやっていないと思う。日頃平和を願っているので、それで十分と思って。
去年の慰霊の日は従姉K子に誘われて、糸満市摩文仁の平和記念公園に出かけた。慰霊の日には毎年そこで沖縄全戦没者追悼式が開かれる。戦争の犠牲になった人々の御魂を慰め、平和を願い、不戦を誓う式典である。私は慰霊の日の摩文仁は初めてであったが、従姉K子はほぼ毎年来て、式典にも参加しているとのこと。彼女と彼女の姪のS子は例年通り式典に参列したが、私は参加せず、正午になって会場の外から手を合わせた。
慰霊の日の平和記念公園はとても混んでいた。そこへ向かう道路も混んでいたが、公園内の駐車場も混んでいて、車を停めるのに難儀した。その日に「これから先、慰霊の日に摩文仁へ行くのは止そうと決めた」ということを覚えていたので、今年の慰霊の日は摩文仁へは行かず、畑の近くにある西原の塔へ出かけた。畑仕事も溜まっていたので朝早くから畑仕事に精を出し、お昼前にはその手を休め、12時5分前には現場へ着いた。
西原の塔、ちっとも有名では無いので、というか、私もこの近くでハルサー(農夫という意味の沖縄語)をするまでその存在すら知らなかったのだが、ハルサーを始めてまもなく、沖縄戦で亡くなった遺骨が合祀されているということを、西原町民である畑の地主のIさんや、同じく西原町民である近所の大先輩農夫N爺様から聞いていた。
西原の塔入口に『西原の塔の沿革』と題された看板がある。それによると、「合祀されている英霊の柱数は、1981(昭和56)年以降現在まで7、068柱である」とのこと。ここに書かれてある「現在」は看板の設置された1993年だと思われる。
12時5分前に着いた私は、ここに収められている英霊の縁故者では無いことに遠慮して、園内には入らず駐車場側で12時になるのを待った。園内には14~5人の大人と、7~8人の子供たちがいた。慰霊の日である、100人ほどの人々が平和を祈りに来ているだろうという私が想像していた景色とは程遠い寂しさだった。あとで気付いたが、『西原の塔の沿革』によると、西原の塔での戦没者追悼式は10月とのこと。
12時、サイレンが鳴った。私も手を合わせ黙祷。黙祷は普通1分間続けるが、私は30秒で済ませ、カメラを出し、写真を撮った。施設内には平和のモニュメントらしきものと、戦没者の刻銘板がある。摩文仁の平和記念公園にある「平和の礎」と同じだ。子供達はその刻銘板に向かって手を合わせていた。未来も平和であるといいね、と思った。
摩文仁の沖縄全戦没者追悼式で沖縄県知事は戦没者追悼の他に、普天間基地の辺野古移設反対の意見も述べたらしい。会場からは拍手が起こったらしい。式典には今年も総理が参加し挨拶した。その中に辺野古基地に関する言及は無く、式典後の記者会見で辺野古のことに触れたようだ。「普天間基地の危険性除去は辺野古移設しかない」と相変わらずの答弁、「何で辺野古以外には無いの?」には今回も答えていない。
記:2015.6.26 島乃ガジ丸
沖縄の男子の名前は、昔は音読みすることが多く、例えば、歴史上の人物でいえば尚巴志(しょうはし)、玉城朝薫(たまぐすくちょうくん)など。時代はずっと下って昭和の復帰前、米国占領下の琉球政府行政主席の3人は、大田政作(おおたせいさく)、松岡政保(まつおかせいほ)、屋良朝苗(やらちょうびょう)などとそれぞれ読む。
私の親の世代になっても音読みは多く、朝延はチョウエン、寛徳はカントクと読み、私の年代になると少なくなったが、それでも、同級生に賢明(けんめい)、朝啓(ちょうけい)などがいた。名前の音読みは、おそらく中国文化の影響だと思われる。
倭国でも音読みの名前は見られる。例えば・・・なかなか出てこないが、例えば吉田兼好(よしだけんこう)、武田信玄(たけだしんげん)、勝海舟(かつかいしゅう)とか。古い人ばかりだが、現代でも噺家などの芸名には音読みがありそうだ、具体的には思い出せないけど、笑瓶(ショウビン)とかいう名前の人がいたような・・・。
表題のショウビン、これはしかし、噺家の名前では無い。昔の琉球の人物名。初めに断っておくが以下は私の作り話で史実では無い。そういう言い伝えも全く無い話。
その昔、阿嘉(アカ:名字)親方(ゥエーカタ:士族の役職名)照敏(ショウビン)という侍がいた。身分は高いが、品性はひどく下品で、ケチで意地悪で下半身のだらしない助ベエ親父、賄賂で至福を肥やし、悪徳商人と結託し、民から消費税という名目で金を奪い取り、金の無い貧乏な民は虫けら同然に扱う悪党であった。ところが、「天網恢恢疎にして漏らさず」の通り、照敏の悪行はある男によって暴かれることになる。
※注:「天網恢恢疎にして漏らさず」は「天の網は広大で目があらいようだが、悪人は漏らさずこれを捕らえる。悪い事をすれば必ず天罰が下る意」(広辞苑)
ある日、兼ねてから照敏に疑いを抱いていた正義の侍、王府直属の隠密同心であった河原万砂によって、照敏と悪徳商人が賄賂を授受する現場を押さえられた。
「見たぞショウビン、この証文と、おそらく中身は金であろうこの菓子箱が動かぬ証拠となる。もはやこれまでだ、大人しく縄につけ!」と万砂は言うが、そう言われて大人しくするような照敏では無い。「者共出あえ」と家来と共に抵抗した。ではあったが、万砂は超人的に強く、者共達はあっという間に倒され、照敏は捕らえられた。
照敏を恨んでいる者は多くいて、次々と証言者は現れ、次々と証拠の品も出てきて、ついに照敏の悪運も尽きて、島流しの刑となった。ということで一件落着。
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表題の「見たぞショウビン」はしかし、これで一件落着では無い。見たぞショウビンのショウビン、じつは鳥のアカショウビンのこと。ナッピバルの周辺の森にアカショウビンがいることはその鳴き声を聞いていて知っていた。鳴き声はナッピバルを囲む周辺の森から頻繁に聞こえるので、1羽だけでなく数羽いるものと思われる。
アカショウビンは夏鳥で、沖縄本島地方では4月から10月まで見られる。ナッピバルでも4月30日からその鳴き声が聞こえ、その後は毎日のように聞いている。
声は毎日のように聞いている。去年も一昨年も声は何度も聞いている。その姿を見ようと森の中へ入って、1時間ほどシャッターチャンスをじっと待ったこともある。しかしアカショウビン、恥ずかしがり屋なのか警戒心が強いのか、人間が嫌いなのか、あるいは、私個人が嫌いなのか知らないが、その姿はまったく見せてくれなかった。
であったが、2015年5月15日、私はついにアカショウビンを見た。
畑の北側境界にグヮバの生垣がある。生垣は道路側から畑小屋方面に向かって約30mの長さがある。その日、いつになくアカショウビンの声が大きく聞こえた。「近くにいるぞ」と思って、畑仕事の手を休め、畑小屋へカメラを取りに行った。
小屋の前に着いた時、アカショウビンの声が一層大きく聞こえ、振り返った瞬間、グヮバの生垣の道路側方面から、グヮバの生垣のすぐ上を飛んで東の森方面へ消えた。畑小屋の前にいた私と彼が最接近した時の距離は約5mしかなかった。
カメラを手にする暇は無く写真は撮れなかったが、全体的に赤っぽいその姿、特徴のある大きなくちばしははっきり確認できた。図鑑の写真で見たその姿に違いなかった。見たいと願っていたその姿、「見たぞ!ショウビン」という気分であった。
言うまでも無いが、アカショウビンは「品性はひどく下品で、ケチで意地悪で」ということはたぶん無い。私の目からはむしろ上品な姿に見える。
ちなみに、河原万砂はカワラバンサと読む。カーラバンサーは沖縄の言葉でイソヒヨドリのこと。カーラは瓦、バンサーは番をする者という意で、高い所でさえずる習性があることから。私の畑の番鳥であるが、正義の鳥ということは、たぶん無い。
もう一つちなみに、この頁に載せている写真の鳥は、この冬ちょくちょくやって来ていたオオタカとシマキンパラとコサギで、4枚目は番鳥のイソヒヨドリ。
記:2015.6.21 ガジ丸 →ガジ丸のお話目次