毎年の2月14日に、私に贈り物をくれる従姉の息子の嫁、才色兼備の良妻賢母Mへバレンタインのお返しに畑のジャガイモ、ニンジン、タマネギを持って行く。
大腸癌から始まり、徐々に身体のあちらこちらに転移し、6年間も癌と闘い続けている友人のRを元気付けるため、膝痛で病院通いとなったKを元気付けるため、双子の息子2人の高校入学が決まった友人Fを祝福するため、それぞれに野菜を持って行く。
才色兼備のMも、友人のRもKもFも那覇に住んでいる。貧乏な私はなるべくガソリンを消費したくない、那覇へは1つの用事だけでは行きたくない。ということで、いくつかの要件を1日で済ませようと計画した。もっとも重要な用事はMにバレンタインのお返しをすることであるが、そのついでに友人達を訪ね、そのついでに映画観賞を計画した。2月16日、空は晴れて気候も良く、畑日和ではあったが、その日那覇行きを決行。
その日観た映画は『カタブイ』という題。カタブイはウチナーグチ(沖縄語)、漢字表記すると「片降り」で、「狐の嫁入り」の意に近い。狐の嫁入りは「日が照っているのに雨の降る天気」(広辞苑)だが、カタブイは日が照る照らないに関係なく、「こっちは降っているのにあっちは降っていない、片方だけ降っている」といった意。
カタブイがどういう意味かどうかは実は、映画の内容と関係無い。関係無いのにカタブイという題にした意図は私には不明。「沖縄気分」ということかもしれない。
「沖縄気分」は今、私が思い付いた言葉だが、沖縄に根付いている文化、信仰、民俗風土、芸能などのことを私はイメージしている。映画『カタブイ』はその沖縄気分が濃く描かれているように私は感じた。監督は、沖縄に住んで(10年くらい?正確には不明)いるがスイス人、そのスイス人が見た沖縄、感じた沖縄が全編に描かれている。
スイス人が見て感じた沖縄、ウチナーンチュの私でも「そうであるか」と納得する箇所がいくつかあって、沖縄の気分を知るにはとても良い映画だと思った。
映画の最後の方で「自由に必要なのは翼ではなく根っこである」という監督のナレーションがある。「じゃっどー(何故か宮崎弁)」と私は大いに納得。
根っこは、人が生きる寄辺(よるべ)となるもの、例えば、生まれ暮らしている土地に根付く民俗文化のことを映画では言っているのかもしれないが、倭国であれば神社とか寺とかの教え、あるいはまた、それを破ったからといって罰せられることはないのに今なお守られている儒教の教え、具体的に言えば譲り合いとか、親切とか、優しさとか、自律とか、それら日本人の心の奥に巣くっている精神、それが根っこだと私は理解した。
その根っこが自由に必要とはどういうことか?空を飛ぶには翼が必要かもしれないが、空を飛んだからといって自由とは限らない。ここでいう自由とはおそらく、心の自由だと思われる。心はいつも自由であると思いがちだが、人がその心を思い通り自由に動かすのは少々難しい。社会には個人の心の自由を許さない縛りがいろいろとある。しかし、
例えば、儒教の教えを根っことしたならば、根っこがしっかりしていれば縛りも緩くなる。根っこがしっかりしていれば心を自由にしても周りと摩擦が起きることはない。ウチナーンチュに儒教精神は足りないけど、その代わり「テーゲー(良い加減)」があり、他人と仲良くするイチャリバチョーデー気分がある。それも沖縄の根っこだと思う。
記:2017.1.24 島乃ガジ丸
池田屋騒動
1月31日付記事、沖縄の飲食『島豆腐』の最後で、
池田屋豆腐の商品は、島豆腐やがんもの他にも白和え、生湯葉(とても興味があるが540円と高い)、じーまーみ豆腐などいろいろある。チーズがんもなんてのもある。毎週火曜日が楽しみとなった。「火曜日が休肝日になることはないな」と思った。
と書いたのだが、ところがその火曜日1月31日、私は風邪で寝込んでしまった。夕方に「トーフー」の声は聞こえた。喉が渇いていた。家には酒類と紅茶コーヒーしかない。「こんな時こそ栄養価の高い豆乳だぜ」と思い、国産大豆の真面目な豆乳を飲みたかったのだが起き上がれなかった。飲んでみたかった豆乳、食べたかった島豆腐、食べてみたかったチーズ入りガンモは来週の楽しみということになった。そして、次の週の火曜日2月7日、「豆乳も豆腐もガンモも来週の楽しみ」はその通りとなる。
豆腐はもちろん、すぐにその半分を切って皿に載せ、その上に酒盗(鰹の腸の塩辛)を載せて日本酒の肴となった。ガンモは日持ちするらしいので翌日以降の肴に予定。豆乳もその日には飲まなかった。風邪を引いた時に購入したヤクルト10本パックが、まだ6個残っていたので、飲物はそれが先となった。で、豆乳も翌日以降となった。
池田屋の豆乳は350ミリリットルのペットボトル入り、表に「高級国産大豆、濃厚豆乳、無調整」と書かれてある。無調整ならば、それを温めれば湯葉が多く採れるはず、にがりを加えれば豆腐になるはず、「試してみよう」と思い立った。
購入したのは2月7日の火曜日、飲んだのは2日後の木曜日。キャップを開けて口をつけてボトルを傾ける。が、中身が落ちてこない。「濃い」のだ。キャップを閉めて上下に数回振って同じようにすると、今度は口の中に中身がゆっくりと流れ込んできた。
想像以上に濃かった。ゆし豆腐(おぼろ豆腐のようなもの)をボトルに入れて強く何度も振ってドロドロにしたらこうなるか?というくらい濃い豆乳だった。豆乳好きの私からすれば「極上!」であった。「旨ぇ」と呟きながら半分を飲んだ。
半分残したのは、第一に、全てを一遍に飲み干すのは勿体無いと思ったからだが、上述したように「湯葉を採る」、「にがりを加えて豆腐を作る」という思惑もあった。しかしながら、中身の半分残ったボトルを見ながら迷った。「どうする?」
「ここに新鮮な本マグロの刺身がある。お前はそれを焼いたり煮たりして食うか?」と自問する。「うんにゃ、そんなことはしねぇ、勿体無い」と自答した。一流プロの豆腐屋池田屋が豆腐を作っている、湯葉も作っている。いくら豆乳が上質だからと言っても、豆腐も湯葉も素人の自分が作るより一流プロの池田屋のものが遥かに旨かろうと結論。
次の週の火曜日、2月14日、夕方いつものように池田屋が行商に来た。「今日は湯葉を肴に日本酒だ」と数日前から決めており、前日はそのために休肝日にもしていた。ところが何と、湯葉は売り切れ、さらに何と、島豆腐も売り切れとのこと。結局この日はニラ入りガンモとおからを購入。せっかく準備した日本酒だ、おからはそのための肴。
「湯葉は大好物なんです。日本酒が好きで、今日は湯葉を肴に日本酒の予定でした。特に生湯葉は日本酒の肴に極上と思っています。」
「そうでしたか、それはすみません、生湯葉は人気があって売り切れることが多いんです。そしたら、来週は1つとっておきましょう。」
「お願いします。生湯葉なんてそこらのスーパーでは見ないですから、とても期待しています。来週が楽しみです。」
などという会話があって、そして、さらに次の週の火曜日2月21日、島豆腐と、ついに生湯葉を購入、生湯葉は大540円、小300円と貧乏な私には高価であった。大の方が1枚辺りの単価は安いかもしれないが、大といえど湯葉なので独り者の私でも1回で食べ切れるとも思ったが、ここは貧乏を優先して小300円を買った。
湯葉は私の大好物である。高価なので滅多に口にはできていないが、日本酒の肴として極上だと常々思っている。生湯葉にいたっては、10年前か20年前かに京都を旅した時に食って以来食っていないはず。乾燥湯葉は沖縄でもスーパーで売られているので何度か口にしているが、それも1年に1回あるかどうかであった。
さて、久々の生湯葉、それも一流プロの真面目な豆腐屋、池田屋の生湯葉、食べてどうだったかって?・・・改めて書くことも無い、旨かったに決まっている。どれくらい旨かったか?・・・そりゃもう、涙が出そうになるくらい旨かった。「何で涙なんだ?」ってか?・・・そりゃもう、食べて幸せを感じて、その嬉し涙に決まっている。
ちなみに、湯葉を広辞苑で引くと、湯葉・湯波・油皮・豆腐皮と漢字が充てられ、
「豆乳を静かに煮立て、上面に生じた薄皮をすくい上げて製した、蛋白質に富む食品。生湯葉と干湯葉とがある。古くから京都および日光産が有名。」とあった。
記:2017.2.21 ガジ丸 →沖縄の生活目次