先週のガジ丸通信『感性の相互容認』の続き。「それぞれが互いの感性を認め合って生活する、つまり、感性の相互容認でいいじゃないかと思う」と書いたが、もちろん、私の気持ちとしては「これでいいのだ、相手も正しいかしれないが、俺も正しいのだ」であった。しかしその後、晩酌しながら「そんな考え、オカシイかな」と思った。
社会は共同体であると思う。共同体とは「血縁的・地縁的あるいは感情的なつながりや所有を基盤とする人間の共同生活の様式。共同ゆえの相互扶助と相互規制とがある」(広辞苑)のこと。「お前はお前、俺は俺で好き勝手にやろう」では、「お前」と「俺」との共同体は成り立たない。「あなたは農業で食料を生産し、私は布を織り服を仕立てる」だと、「あなた」と「私」の共同体は成り立つ。
私(これを書いている私のこと)は、自ら畑を耕しいくらかの野菜を得ているが、誰かが生産した米や肉、その他の食料を食い、誰かが生産した服を着て、誰かが建てた家屋に住み、誰かが働いているお陰で車に乗り道路を走り、国や県、市町村のお陰で安全に生きていける。まったくもって大いなる扶助を受けている。
相互に与えられたり与えたりして社会は成り立つ。与える力の弱いもの強いものの差はあるだろうが、弱いものは感謝すればいいのだ。「ありがとう」で済むはずだ。
それなのに私は、誰かに扶助を与えているかと言うと、「与えているぜ!」と自身持っては言えない。私の場合の扶助は相互ではない。相互でないならせめて、「ありがとう」と感謝し、他人に優しくあらねばならぬと今更ながら反省している。
人が人として生きていく上で最も大事なものは自由であると、私は思っていた。自由が大事ということは今も正しいと思っているが、社会の一員として生きていくからには共同意識がその上をいく重要なことではないかと今考え直している。
社会が上手くいくためには個人個人が共同体の一員であることを自覚し、助け合うことが必要であろうと思う。自分のためだけに生きてきた私が「いまさら何を」かもしれないが、自由大好きの私が、これから共同意識を持てるかどうかも自信無いが。
共同はまた、夫婦にも家族にも言えることだと思う。夫婦は力を合わせて互いの幸せが築けるよう努力し、家族の幸せを保たなければならないはず。
「トイレは小の時も座ってやってよね。」
「何で、俺は男だ、男には男のやり方がある、女の真似なんかできねぇよ。」
「立ったままやられるとさ、便器に飛び散って汚れるのよ。」
「掃除すればいいじゃないか!」
「誰が掃除すると思ってるのよ!」
などと喧嘩なんかしてはいけない。この場合、妻の方の言い分が正しいと私は思う。トイレ掃除は夫の役目にするか、素直に妻の言うことを聞けばいいのだ。
なんて、妻を得たことのない私が言うのも変だが、そうやっていろいろ考えると、人生の半分は我慢であり、感性の半分は相手に合わせる必要があるのであろう。
記:2017.12.15 島乃ガジ丸