腰痛で畑仕事が進まなくて、「畑も辞めなきゃならない」と思って、その方向で今、畑のダンシャリをやっているが、後から後から要らぬ物が出てくる。
実家の処分の際、家の中のあちらこちらに物がたくさん詰められていて、「何で父と母はこんなガラクタを取ってあるんだ、バカじゃないの」と思ったことを思い出す。
そんなガラクタを「いつか使うかもしれない、想い出の品かもしれない」と思っていくつもの箱に詰めた。その頃既に畑(ナッピバル)を借りていて小屋も建てていたので、小屋の中にそれらの箱を保管していた。父母と同じように私も「いつか使うかも、何かの役に立つかも」とガラクタ集めをしていたのだ。父と母は少なくとも、後を見てくれる息子(私のこと)がいる。私にはそういう者がいない。周りの迷惑になるだけ。
実家から持ち帰ったもの、自身で集めたものも含めそれらのガラクタをダンシャリしていると「バカじゃないの」と心空しくなっていく。「役に立たないものをたくさん集めて保管して、それを捨てる作業をしている、誰の役にも立たないことに多くの時間をかけているぜ、大バカ者だぜ俺は」と思う。そう思って年末年始は反省の日々となった。
実は私は、前の前のアパートから前のアパートに越した際(2011年9月)、書籍やらCDやらレコードやらを大量に処分するなどダンシャリを行っている。ところが、前のアパートから今の住まいに越した際(2016年12月)は、写真や手紙やらをいくらか処分しただけで、ダンシャリと言えるほどのものはやらなかった。私には物を保管できる畑小屋という強い味方があったからだ。私の持っているガラクタは、畑小屋に「取り敢えず置いておけ、後で考えよう」となったわけである。
既に、実家から「いつか使うかも、何かの役に立つかも」と持ってきた物も畑小屋に大量に保管していた。それらは「そのうち仕分けして、多くは処分しよう」と予定していたのだが、畑仕事に追われ・・・というか、ほとんど役に立たない物置き作りなどに時間を使い、雨にも台風にも夏の暑さにも負けて、ダンシャリは延期が続いていた。
畑のダンシャリは去年(2017年)12月から始めた。やっている内に「役に立たないものをたくさん集めて保管して、そして今は、それを捨てる作業をしている、誰の役にも立たないことをやっているぜ、大バカ者だぜ俺は」となったわけ。
畑だけでなく、借りている住まいのダンシャリも同時にやっている。今の住まいは家賃が前のアパートより1万円も高いのだが畑に近いからという理由で借りている。畑を辞めるので畑の近くにいる必要はなく、もっと安いアパートに引っ越す予定だ。そういうわけで部屋のダンシャリとなっている。これも時間がかかっている。
部屋のダンシャリはレコード、CD、書籍、衣類、食器類などバッサリ切り捨て、写真や手紙葉書などの類もその多くを捨て、愛用だった(ほとんど弾いていないので愛用とは言えないかも)サンシン(三線:三味線のこと)も友人にあげた。それでもまだ、ダンシャリする対象は多くあると思われる。例えば、「いつか美女が自分の部屋に泊まりに来るかもしれない」と思って準備している寝具一式など。「そんなことねーよ」だ。
必要以上に物を持たないこと買わないこと、これが実質的に、地球に優しい生き方になるのではないかと、やっと気付いたダンシャリに疲れている今日この頃。
記:2018.1.19 島乃ガジ丸
先週(2018年1月12日)のガジ丸通信『年老いて知る親の心』で、「他人の悲しみや淋しさを理解するということを私はこれまで怠っていたような気がする。」と最後に書いているが、そう書いている時にチムグクルという言葉が浮かんだ。
チムは肝の沖縄語読みで、『沖縄語辞典』によるその第一義は臓器の肝であるが、その第二義に「心。心情。情」とある。ククルは心の沖縄語読みで連濁してグクルになる。ということで、チムグクルは「心心」となって、心を強調したものと思われる。
心の中の心であるチムグクル、ラジオなどから耳に入ってくる限りの私の認識を言えば、「他人の気持ちを我がことのように感じる心」という意味のようである。
チムグクルはしかし、『沖縄語辞典』に無かった。正確な発音はチムククルのようである。『沖縄語辞典』によるチムククルは、「心。心を強めていう語。」とのこと。ということは、チムグクルはククルがグクルになる連濁発音と、「他人の気持ちを我がことのように感じる心」という意味も合わせて現代になってからの造語かもしれない。
以上のこと、前にも何かで書いたなぁと思って調べたら、2016年3月19日付記事『チム、ククル、ショー』で語っていた。その中から抜粋。
チムグクルという言葉がラジオから流れるのを私は何度か聞いている。漢字にすると肝心になると思われるが、私の聞いた限りでは「同情する心」といった風な意味で使われているようである。
チムグクルについては以上で、さらに、チムグリシャン(チムグリサンに同じ)についても書いている。
「同情する心」といった意味では他にもっと美しいウチナーグチがある。チムグリシャンである。漢字にすると「肝苦しゃん」、沖縄語辞典では「不憫である かわいそうである」と訳されている。字から想像すれば、肝(心の深い所)が苦しくなる程同情するということになる、美しい言葉だと思う。
なんて書いていた。そのことをすっかり忘れ、再びチムグリサンについて以下。
「他人の気持ちを我がことのように感じる心」という意味での由緒正しい言葉としてはチムグリサンがある。グリサンは「苦しい」で、チムグリサンは「心苦しい」となる。
チムグリサンは『沖縄語辞典』にあり、それによると「不憫である。気の毒である。かわいそうである」となっている。『沖縄大百科』にはチムグルサン(「グルサンまたはグリサン」と説明がある)という表記で載っていて、より丁寧に説明されている。チムグルサンは「相手の痛みを自分の痛みとして感じる心の働きである」とのこと。
チムグリサン、今改めてその意味するところの「相手の痛みを自分の痛みとして感じる心の働きである」を考えると、それには、いかにもウチナーンチュ(沖縄人)らしい優しさを感じる。呑気でいい加減なという意味ではいかにもウチナーンチュと自負していた私だが、ウチナーンチュの美徳であるチムグリサンは不足しているようである。
記:2018.1.17 ガジ丸 →沖縄の生活目次
参考文献
『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行