ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

瓦版033_1 グスミチカリカリ

2007年06月15日 | ユクレー瓦版

 さすが梅雨時と思われるような降ったり曇ったりの天気がしばらく続いて、今日は久々に晴れた。外の空気を吸おうと散歩に出る。ついでにシバイサー博士のご機嫌伺いにと研究所へ向かった。途中、ユクレー屋にちょいと立ち寄った。店に入るが誰もいない。裏庭を覗いたらそこにマナがいた。マナは洗濯物を干していた。
 「やー、マナ、いい天気だね。洗濯干すのも久々だろ?」
 「おはよ。そうだね、このところずっと部屋干しだったからね。」と言いつつ、マナは作業を続ける。自分のパンツもブラも干している。
 「下着まで外に干すのか、丸見えじゃなの。」
 「あんた、これ見て欲情する?しないでしょ。いいのさ、村の人たちがやってくるのも夕方からだし、ここは外からは見えないし。昼間、裏庭を覗くような人はあんたか、ケダマンくらいじゃない。二人とも私にとっては男じゃないのさ。」
 「ジラースーが来るかもしれないよ。」
 「今日は来ないの。彼が来るのは明日。」と言ったとたん、顔をにやつかせた。
 「何だその顔、ジラースーと上手く行っているの?」
 「上手くも何も、何の話もしてないよ。会えるだけでいいのさ。」
 なるほど、恋する女は会えるだけで嬉しいらしい。三十半ばという歳で、あれこれ経験している割には、マナは純情みたいである。

 「ところで、ケダマンも見えないけど、どこへ行ったの?」
 「久々の晴れ間だからって、その辺プカプカしてくるって言ってたよ。」
 「ふーん、そうか。出くわさなかったから、ずいぶん早く出たんだな。」
 「うん、そうだね。1時間ほど前かねえ。」
 と話しているうちにケダマンが帰ってきた。噂をすれば陰だ。

 「やあ、どこをプカプカしてたんだ?」
 「うん、いい風が吹いていたんでな、ちょいと山の方をプカプカしてたんだけどな、それよりもな、途中の道でちょっと不思議なものを見たぜ。」
 「不思議なものって何?」(マナ)
 「まあ、不思議って言うか、ガジ丸なんだけどな。アイツ、大声で歌いながら歩いていたんだ。ガジ丸ってよ、一見、静かな人ってタイプだろ、それがさ、暢気に大声で歌っていたんだ。何かずいぶん楽しそうで、いつものクールなガジ丸とは違っていたぜ。周りに誰もいないと思っての大声だったんだろうけどな、頭上に俺がいたわけさ。」
 「歌うって、ガジ丸は元々歌うのは得意だよ。楽器も弾けるしさ。でも、そういえば、あんまり歌わないな。上手なんだけど控え目なんだな。」(私)
 「そうだぜ。このあいだチャントセントビーチの唄を歌っただろ、あれも相当久しぶりだったよな。俺なんか、10年ぶり位のガジ丸の唄だったぜ。」
 「でもさ、人前で歌わなくたって、一人の時は歌うんじゃないの。」(マナ)
 「うーん、まあ、そうだろうね。上手いしね。」(私)
 「いや、そりゃあそうかもしらんが、アイツ、不真面目だろ、歌うとしてもひょうきんな唄ばっかり歌っているだろ、それがさ、真面目そうな唄を歌ってたんだ。」
 「へーえ、どんな唄、ちょっと興味あるな。」(マナ)
 「いやー、俺も面白いと思ってな、ガジ丸の目の前に下りて、訊いたんだ。」

  「よー、何を暢気に歌っているんだ?」
 「何だオメェ、聞いていたのか?」
 「そんな大声なら、聞きたくなくても聞こえるさ。」
 「あー、そうか。誰もいないと思って、ついつい大声になっていたか。」
 「ウチナーグチの歌みたいだったけど、沖縄民謡か?」
 「うん、ウチナーグチだが、まあ、沖縄民謡としてもいいかな。俺の作った歌だ。」
 「生きているのが幸せなんだ、なんてよ、何かオマエに似合わない真面目な唄だなあと思っていたら、作ったのもオマエなのか?」
 「あー、俺の作詞作曲だ。真面目って言やぁ真面目だな。だけど、元々真面目がテーマじゃなくて、コマーシャルソングなんだ。」とガジ丸は言って、ポケットから何かを出した。細長い白っぽいものがガジ丸の手の平に数本あった。大きさはまちまちだが、平均するとポッキーの太さで、ポッキーの四分の一の長さくらいのもの。
 「何だそれ、食い物か?」
 「うん、そうだ。食べてみろよ。」と言うので、俺はその一つを口に入れた。カリカリした食感も良いが、味も良い。噛むほどに旨味が出る。
 「美味いなこれ、酒のつまみだな。」
 「グスミチカリカリって名前のスナックだ。ウフオバーが作ったものだ。シバイサー博士も食い物をいろいろ発明しているが、俺はオバーが作ったこのグスミチカリカリが大好きだ。博士のものより売れるに違いないと思ってな、唄までできたわけだ。」
     

  場面はユクレー屋に戻って、
 「というわけだ。ガジ丸はコマーシャルソングを歌っていたんだ。」
 「オバーのグスミチカリカリって有名なの?」(マナ)
 「いや、俺は知らなかった。マナも食べたこと無いのか?」(ケダ)
 「無いよ。見たことも無いよ。ゑんちゅは?」(マナ)
 「何年か前にオバーが作ったのを、ガジ丸と一緒に私も食べたよ。あっ、そうだ、思い出した。そういえばその時、グスミチカリカリをガジ丸がとても気に入って、販売しようぜとなって、コマーシャルソングも作るなんて言っていたよ。でも、オバーの話では、グスミチそのものがなかなか手に入らないので、そうしょっちゅうは作れないみたいで、販売するほど生産はできないってことだったな。」(私)
 というわけで、グスミチカリカリは販売のされていない幻のお菓子なのであった。
     

 ※グスミチ:沖縄口で軟骨のこと

 記:ゑんちゅ小僧2007.6.15 →音楽(グスミチカリカリの唄)


もうひと踏ん張りの沖縄映画

2007年06月15日 | 通信-音楽・映画

 このところずっと現場に出ている。雨の日が多くて合羽を着ての作業となる。合羽を着ると暑い。パンツがびしょびしょに濡れるほどに汗をかく。すると、家に帰って風呂上りに飲むビールが美味い。よって、この2週間余り、休肝日が無かった。たっぷり汗をかくほどの肉体労働なので体も疲れている。疲れとアルコールで脳味噌もふにゃっとなる。ふにゃっとなった脳味噌では文章を書くのにも絵を描くのにも、いつもの3倍ほどの時間がかかる。書きたい文章や描きたい絵のほとんどは週末に回る。週末は畑仕事があり、部屋の掃除があり、オジーオバーのパソコン講座もあるので、とても忙しくなった。

 そんな忙しい週末、先週の土曜日、オジーオバーのパソコン講座を終えた後、映画を観に行った。忙しいときに何でわざわざ映画などと思いもするが、大好きな桜坂劇場で、2本の沖縄映画が今、上映されており、少なくともその内の1本くらいは観ておきたいと思ったからだ。1本は『恋しくて』、もう1本は『アコークロー』。
 『恋しくて』は、『ナビーの恋』の監督による作品。『ナビーの恋』はとても良い映画であった。が、次の『ホテルハイビスカス』がちょっと期待外れだったことと、『恋しくて』の内容が青春物ということがマイナス要因となる。若い人の恋愛モノを私は好きでない。「良い思いしやがって。」と腹が立つのである。『恋しくて』を既に観たという友人Tの評価も「イマイチ」ということだったので、今回は『アコークロー』を選んだ。

 上映時間ギリギリに場内へ入る。驚く。桜坂劇場にしては珍しく客が多いのだ。8割がた席が埋まっている。『アコークロー』って、この日が確か初日のはず。「俺が知らなかっただけで、とても前評判の高い映画なんだなあ」とその時思う。すぐに場内が暗くなったので、席を探すのに手間取り、結局、前から二列目の端の方の席となる。桜坂劇場で、このような見辛い席に座ったのは初めてのことである。
 映画が終わり、エンドロールがスクリーンを流れる。私は概ねエンドロールもじっくり観るようにしているが、これまでの経験では、多くの人がエンドロールが始まると、場内が暗いうちに外へ出る。ところがこの時は、立ち上がる人がほとんどいない。「えっ、うそ、それほど感激する映画では無かったぞ」と思いつつ、幕が閉じ、場内が明るくなる。それでも立つ人はほとんどいない。私は立つ。後ろを見ると客はさらに増えており、入口近辺には立ち見している人も何人かいた。その理由はすぐに解った。
  私が立ったと同時くらいに、舞台の袖から一人の若い男性が出てきた。映画にも出演していた沖縄の役者であった。私が出口へ向かって歩いている間に、これから舞台挨拶が始まるということを彼はアナウンスした。「監督、吉田妙子さん、・・・が出演・・・」と彼が言った時には、私はもう出口にいた。「生の吉田妙子は見たかった」と思いつつ、膀胱が満タンになっていた私はトイレへ駆け込んだ。そして、そのまま帰った。

 『アコークロー』は、沖縄を舞台にしたちょっと怖い映画でした。その他には特に感じること、考えさせられたことは無かった。霊とマジムンに対するウチナーンチュの意識をもう少し掘り下げてくれたら、私の満足度も高くなったに違いないと思う。 
          

 記:2007.6.15 島乃ガジ丸


手を繋げる幸せ

2007年06月08日 | 通信-政治・経済

 私は時々、痔が出る。時々という時々は、日本酒を特別飲みすぎた時とか、激しい運動を数日続けた時とかで、数年に1回くらいである。その期間が年々短くなったり、症状が年々悪化するということは無いので、痔が私の持病であるとは言えないと思う。
 私の持病は他にある。最近までそれが病気などとは思わなかった。ただの体質、おっぱいが大きいとか小さいとか、体毛が濃いとか薄いとかと同じようなものだと思っていた。2、3年前だったか、新聞だったか雑誌だったかで、「多汗症は病気です。治療が必要です。」なんていうような広告を見て、「あー、病気なんだ」と認識した。そう、私は多汗症である。多汗症という言葉もその広告で知ったのであった。
 緊張した時には間違いなく、そうでない時も時々、私は手の平や足の裏に激しく汗をかく。多汗症という言葉を知るまで、私は私の手のことを脂手だと思っていた。「脂手」は広辞苑によると「脂肪の分泌量の多い性質の手」のこと。しかし、私の手から滴り落ちる水分は油では無く、汗である。よって、多汗症なのである。多汗症は「生理的または病的に多くの発汗を来す皮膚の病症。全身性と局所性とがある。」(広辞苑)とのこと。

 「そんな子供じみたマネ恥ずかしい」という理由も2割くらいあるが、緊張すると手の平にしたたか汗をかくという理由が8割くらいで、私は女性と手を繋ぐことがあまり好きでない。最近はどうか知らないが、私の年代が結婚適齢期にあった頃は結婚披露宴の余興でよく歌われた松田聖子の『赤いスイートピー』、その歌詞の中に「付き合って半年経つのに、あなたって、手も握らない」というフレーズがあるが、「握りたくても握れない理由もあるんだ」と、若い頃の私は、その歌を聞くたびによく思っていた。

 実際に手を繋ぐことは好きでないが、心の手は繋ぎたいと常々思っている。それは、惚れた女性なら100%、嫌いでなければ男でも女でも、できるだけ手を繋げる仲でありたいと思っている。そうすることによって、平和であるようにしたいと望んでいる。
  中学だったか、高校だったか、漢文の授業で、「莞爾として笑う」という言葉が出てきた。その言葉は、「鷹揚に笑う」というイメージで私の心に染み付いた。中国の広大な大地に生まれ育った、ある程度の大人(おとな、で無く、たいじん:徳の高い立派な人という意)ならば、おおらかな性格をしていて、自分に多少の不利益があっても、「カッ、カッ、カッ、まぁ、いいってことよ」と鷹揚に笑って済ませるというイメージである。
 「莞爾として笑う」はしかし、広辞苑によれば「にっこりほほえむさま。にこやか」とある。特に、寛大とか鷹揚とかの意味があるとは書いていない。少なくともカッ、カッ、カッでは無いみたいである。でもまあ、ちょっと嫌なことがあっても、「にっこりほほえで」許す位の意味はあろう。中国の大人は慈悲深いのである。

 先だって、中国の首相が日本を訪れた。滞在中、彼は概ね「にっこりほほえむさま。にこやか。」であった。いかにも、中国の大人であった。
 ケンカして勝つより、手を繋いで楽しく歩けることの方がはるかに幸せなことだと私は思う。靖国参拝なんて瑣末なこと。A級戦犯を別にするなんてことも簡単なこと。どちらも隣人同士が手を繋ぐ幸せに比べれば何ほどのことも無い。・・・と私は思うのだが、面子の方が命より大事って思う人も多いんだろうな。幸せは簡単じゃないね。
          

 記:2007.6.8 島乃ガジ丸


瓦版032 粗食小食の悪魔

2007年06月01日 | ユクレー瓦版

 週末の夕暮れ時、いつものようにユクレー屋へ行く。ユクレー屋は、門から建物まで十メートルほどは離れているが、その門の辺りからマナの笑い声が聞こえていた。もう吹っ切れたんだろうか。ずいぶんと元気になったみたいだ。中へ入る。

 「やー、外からも笑い声が聞こえていたよ。元気みたいだね。」(私)
 「ほいさ。明日に生きるマナなのさ。何にする?ビール?」(マナ)
 「うん、だね、ビール頼みます。それにしても、マナには元気が似合うよ。」と言って私は、既に早い時間から飲んでいるケダマンの隣に座る。
 「賑やかそうだったけど、何の話してたんだい?」(私)
 「先週、ウルトラの米を地球で育てようかなんて話をしただろ?その米が育ったら高さ20メートルくらいになるってガジ丸が言ってただろ?そんな大きな稲の収穫作業をするなんて想像話でちょいと盛り上がっていたんだ。俺たちはよ、稲の茎を登って、その先にある籾の一粒にやっと辿り着くんだ。その籾にしがみついて、齧っている自分を想像したんだな。俺はさ、毛むくじゃらだろ。まるで野鼠みたいだぜ。」(ケダ)
 「まあ、確かに。それにしても、金儲けを逃がしたのは残念だったな。」(私)
 「うん、それはまったく残念だった。」(ケダ)

 なんて会話をしていたら、マナがビールを持ってきて、そして、話に加わった。
 「あんたたちさあ、マジムンでしょ?別に食べなくたって生きていけるんでしょ。それがさあ、何で金儲けしようなんて思うのさ?」(マナ)
 「まあな、確かに俺たちに金は必要ないんだけどな。金は何ていうか、まあ、欲望の一つの対象ということだな。欲を満足させるための道具みたいなものだな。」(ケダ)
 「でもさ、マナ、ケダマンはそれを遊びの一つとして捉えられるんだけどね。普通の人間の中には、欲を満足させることそのものが人生になっている人も多いんだよ。」(私)
 「だってさ、欲があるから人は生きてるんじゃないの?」(マナ)
 「いや、生きるのに必要な欲ってのは、実はさほど多くはないんだ。もう十分満たされているのに、もっともっとと欲しがってしまうんだな。一種の病気だな。」(私)
 「そんな人間に、『ダンナ、美味い話がありますぜ。濡れ手に粟の儲け話ですぜ。あっしが手伝いしますぜ。』なんて悪魔の囁きが聞こえてくるんだぜ。」(ケダ)

 その時、突然、もわーっとした空気が流れてきて、
 「呼んだか?」と声がして、怠け者の悪魔グーダが現れた。
 「わっ!」と我々三人は驚いて、同時に声を上げる。
 「急に出てくんなよ。びっくるするじゃないか。」(ケダ)
 「呼ばれて、飛び出てジャジャジャジャーンさ。」
 「あんた、ハクション大魔王か?まったく。」(ケダ)
 「まあ、悪魔なんだけどな。急に名前が呼ばれたから、急に出てきたのさ。」

 グーダはいかにも悪魔の格好をしているが、そう悪い奴では無い。マナも前に会っているので、そう怖がってはいない。少し経って落ち着くと、
 「何か飲む?」とグーダに訊いた。
 「うん、そうだな、泡盛の水割りをジョッキでちょうだい。」
 「何か食べる?・・・って、悪魔も何か食べるの?」
 「人間の食べ物はあまり食わないな。まあ、食って食えないことは無いから、たまには食うこともあるけどな。でも、人間の食い物を食っても、俺たちには何の役にも立たないんだな。悪魔にはそれとは別の食い物がある。好物の食い物もあるよ。」
 「それって、本かなんかで読んだことあるけど、人の不幸ってこと?」
 「まあ、早い話が、そういうことだ。」
 「私、前にすごく悲しいことがあったんだけど、そういうのが食い物になるの?」
 「いや、一般には、悲しみは悪魔たちの食い物ではない。まれにはそういったゲテモノ食いの悪魔もいるがな。悲しみのほとんどは愛情から出るものなんだ。愛がある故に悲しみは生まれるんだな。愛は、悪魔の最も嫌うものとなっている。悪魔の好物はそれと対極にあるもの、つまり、憎しみとか怒りとか、妬みなんかが我々の好物となる。」
 「グーダもやっぱり、そういうものが好物なの?」
 「いや、私は”まれには”の方だ。仲間からはゲテモノ食いと呼ばれている。元々、粗食小食でやってきているしな。だからこうやって、今でも痩せっぽちなんだ。」
 「え?、本で見る悪魔は皆痩せているみたいだけど、違うの?」
 「うん、人間界は憎しみ、怒り、妬みで溢れているからな。悪魔が食うに困ることは昔からちっともないんだが、人口が増えている分、そういったものは昔より今の方がずっと多くなっている。食い過ぎて、肥満体になっている悪魔も増えているんだよ。」

  肥満体の悪魔をケダマンが想像して、皆に見せてくれた。そのひょうきんな格好に皆が笑って、場が賑やかになった。一人、マナだけが真面目な顔して、話を続ける。
 「ゲテモノ食いということは、グーダは悲しみを食べてるの?」
 「そう、悪魔にとって悲しみは粗食ということになる。そういえば、マナの涙も私の食い物の一つになったよ。あんまり美味くは無かったけどさ。」 
 「あー、そりゃあ不味そうだ。俺は食いたくないな。ハッ、ハッ、ハッ。」とケダマンが笑い、「何さ」といった顔をしていたマナもつられて笑い、場はさらに明るく賑やかになった。その夜の宴会は、悪魔の帰る時間である明け方まで楽しく続いた。
     

 記:ゑんちゅ小僧 2007.6.1


ジェンダーってナンジャー

2007年06月01日 | 通信-社会・生活

 パソコンを始めて3年余りになる友人のHは、3年経った今でも、メールさえ満足にできない。「写真送るのはどうするんだっけ?」などとたびたび訊く。覚える能力も衰えているには違いないが、なにより、覚えようとする意欲が足りないのである。「わからん時は訊けばいいさあ」くらいに思っているようである。
 そういう私もまた、Hのことをとやかく言う資格はあまり無いのである。テレビを観ていて解らない言葉が出てきても、まず調べない。で、覚えようとしない。

 女子高生の使う言葉が解らないのは、別に恥ということにはならないと思うが、頻繁に使われている政治経済などの用語が解らない。特に、最近の外来語はほとんど解らない。解らない言葉はおそらく無数にある。解らないので、思い出すこともできない。クライアントとかリベンジとかを最近、何となく分るようになったくらいだ。が、そういった言葉も、「日本語に訳せるだろう、日本語にしてしゃべってくれ!」と思ってしまう。
 ロハスって言葉も最近よく耳にしており、何となく分るようになった。健康的で環境に優しい生き方ということではないかと認識している。
 最近聞いた言葉では他に、ジェンダーというのがある。男女同権とか、雇用機会均等法とかの話題の中で出てきたので、そういう関係の言葉だとは思うが、「ジェンダーってなんじゃー!」なのである。「一般庶民の分る言葉を使ってくれ!」と思ってしまう。

 話の流れから、「女の特性、男の特性をそれぞれ平等に生かせる社会」をジェンダーは連想させたが、当たっているかどうかは不明。強いて調べようとしない、覚えようとする意欲が足りないオジサン(開き直りでは無い、他にやることがあるのだ)なのである。それはともかく、もしもそうであるなら、ジェンダーという考え方は正しいと思う。

 離婚後300日問題のニュースを観ていて、そんな理不尽な法律が大昔から改正されずにいたのかと思った。それはまるで、「夫の浮気より妻の浮気は罪が重い」みたいではないかと思った。何年か前に、自分は浮気する友人のTが「女房の浮気は絶対許さん」と言っていたのを思い出す。彼はまた、「家族を養う稼ぎができないんだから、女房が夫に従うのは当然だ」などとも言っていた。それは今の社会が、「女の特性、男の特性をそれぞれ平等に生かせる社会」じゃないからだろうと私は思うのである。
 法改正が、「離婚を助長する」、「家族制度が崩壊する」とかの理由で反対されたらしい。反対したのはおそらく、妻は夫に従い、子供は親に従いを当然だと思っている歳取った政治家たちである。人間を型に嵌めるのが好きな保守層である。離婚は手続きの問題では無い、心の問題である。家族は形では無い、心の繋がりである。

  離婚後300日規定は、極端に言えば、男が女の生殖を管理支配するために作られたと思われる。さっさと撤廃すれば良いのにと私は思うのだが、テレビの報道番組を観る限りでは、世の女性たちの「法改正しろ!」という声はちっとも盛り上がっていないみたいである。何故だろう。「法改正しろ!」は、男の私でも思っているのに。
 と思っているからといって、じつは、私が女性の味方というわけでは無い。一夫一婦制は好きじゃないなあ、と思う立場から物申しているだけである。不届き者です。
          

 記:2007.6.1 ガジ丸