ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

沖縄陸軍病院南風原壕群跡

2013年08月16日 | 沖縄02歴史文化・戦跡

 戦跡として有名な糸満市にある『ひめゆりの塔』は、看護補助要員として動員された女学生で戦死、または自決した方々を慰霊するものだと聞いている。「ひめゆり」は彼女達がひめゆり学徒と呼ばれたからとも聞いていた。しかし、今回調べて分かったことだが、それは彼女達を偲んで、あるいは称えて、戦後つけられた名前とのことであった。
  ひめゆり学徒たちが最初に勤労奉仕に従事した場所は南風原陸軍病院だということをおぼろげに記憶していて、そこへ行ってみたいと前から思っていた。で、2007年8月23日のお昼頃、仕事が近くであったこともあり、私は南風原陸軍病院壕跡を訪れた。
 辺りを散策したが、壕の入口は見当たらなかった。入口らしき所があって、その横に立てられていた看板の文章を読むと、「現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。」とあり、「南風原文化センター 2002年」と書かれていた。私が訪れた2007年は、まだその準備ができていなかったと想像された。

  今年(2013年)6月末、実家にあった戦争遺留品を寄贈するため南風原文化センターを訪ねた。そこは黄金森という名の広い公園の中にあり、建物はまだ新しかった。訊けば2009年にオープンしたとのこと。黄金森公園の中には沖縄陸軍病院南風原壕群跡もあるとのことだったので、寄贈を済ませ、センターを出て壕跡の見学に行った。
 「センターのすぐ後ろに飯上げの道という名の坂道があります。それを上っていけば壕跡に行けます。あそこです」とセンターの係りの人がわざわざ外に出て指差してくれた。飯上げの道とは、食事を作ったのはセンターのある辺りにあり、そこから飯を運んだところからきている名のこと。太陽がガンガン照り付ける暑い中、坂道を上った。

  入口からすぐ、10mも行かない内に見覚えのある景色があった。「悲風の丘」と看板があり、それで6年前の記憶が蘇った。「ここは1度来ている」と気付いた。「確か、南風原陸軍病院で亡くなった人々を慰霊する塔のあるところだ」と中へ入ると、その通りであった。2007年当時は原野のような中にあった塔であった。
 そこから壕跡へ向かう道も整備されていて全く見覚えのない景色が続いた。壕跡の入口も整備されていて案内所となっている建物も建っている。私が2007年8月に見た壕跡の標識が立っていたところはどこなのか全く見当がつかなかった。後日、センターの人に写真(2007年8月の)を見せると、「そこは今の出口辺りに立てられていたものだと思います」とのこと。出口辺りを見ると、そうかもしれない地形であった。

  沖縄陸軍病院については、南風原文化センター作成のチラシの説明をそのまま拝借。
 沖縄陸軍病院(球18803部隊)は1944(昭和19)年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。
 6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍空襲によって施設が焼却し、南風原国民学校校舎に移転した。それ以降、第32軍野戦築城部隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が造られた。
 米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
 4月1日に米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出された。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
 南風原町は1990(平成2)年戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。

 沖縄陸軍病院南風原壕群跡
 第二外科群の内、現在、20号壕が整備され公開されている。
 見学には予約が必要で以下の決まりごとがある。
 ・一度に入る人数は10名以内
 ・全員必ずヘルメットを着用(現場無料貸出)
 ・懐中電灯を使用(現場無料貸出)
 ・常駐ガイドが案内する
 ・見学時間は1グループ20分程度
 これらの他、私がガイドから注意されたこととして、
 ・ガイドの指示に従う
 ・壁や天井に触れない(土が崩れやすいとのこと)
 ・天井の低い所があるので頭上に注意する
 なお、写真撮影は許されている。私は手にカメラを持ちながら、撮り忘れた。

     
     
     
     
 記:2013.8.14 ガジ丸 →沖縄の生活目次


マルチの効果も限界

2013年08月09日 | 通信-環境・自然

 先ず、言葉の説明から。マルチとはマルチ商法、マルチタレントといった「多数の」とか「多面的な」という意味のマルチでは無く、農業用語のマルチングの略。「広義には、農作物の根ぎわを藁や草などで覆う・・・(中略)・・・特に地温上昇による促成、雑草防除などのために、ビニールで耕地を広く覆う栽培法をいう」(広辞苑)のこと。引用が長くなったが、普通は「特に・・・」以降のビニールで覆うことで、私の場合は「広義では・・・」の根際を藁や草などで覆うとなっている。

  「雨が降らないよー」と農夫が嘆いても、「降ってくれよー」と祈っても、雨は降ってくれない。畑はあちらこちらで深い地割れが起き、地面が割れるついでに植物の根も割って、作物は枯れるもの、枯れないまでも実を着けないものとなっている。乾燥に強いとされているラッカセイも数株が枯れてしまっているが、ラッカセイは逞しく育てようと、植えた当初から水やりをしていない。それで数株が枯れただけなので「まぁ、いいか」と今も水をやっていない。収穫までもう少しだ、頑張ってねと祈ってはいる。

  雨の降らない夏だが、今年はまた、例年になく暑い。倭国では35度を超える猛暑日なんて日もあるようだが、沖縄で35度を超えたのは観測史上無いのではないかと思う。34度を超えるのがひと夏に1回か2回あるかどうかだったと思う。
 「思う」だけではいけないので調べてみた。沖縄気象台の記録によると、那覇市の2003年から2012年までの10年間の7月8月、620日間の毎日の最高気温は、33度台が83日、34度台が16日、35度台も2日あった。34度台がひと夏に1~2回というのは当たっていたが、35度台も10年間で2日はあったようだ。
 ところが、しつこいようだが今年は暑い。7月は33度台が14日、34度台が1日で平均は平年値を上回っている。8月になるとさらに暑くなり、昨日までの8日間で33度台が5日、34度台が3日(35度に近い日が2日)と恐ろしいばかりの暑さだ。

  気温が高い、つまり太陽光線が強いと地温が上がる。地温が上がると地中の水分が蒸発して地割れが起きることになる。地温が上がるとまた、作物の根が傷む。根が傷むと枯れたり、育ちが悪くなったり、実を着けなくなったりする。農夫は生きていけない。なら、地温が上がらないためにどうしたらいいかというと、冒頭に挙げたマルチ。
 なっぴばるには11の畝を立てており、今、その内の3畝にラッカセイ、1畝にビートを植えており、あとはニラやオクラなどがポツンポツンと少々あり、概ねは背の低い雑草を中心に草は生えっ放し。ただ、ラッカセイとビートのある4畝は除草をしており、ラッカセイの畝はすべて裸土だが、ビートの畝は刈り草(主にチガヤ)でマルチした。
          
          

 除草の効果は、太陽が作物に十分当たり、風通しが良くなるというプラス面と、土が裸になり乾燥を速めるというマイナス面がある。なので、マルチをして乾燥を遅らせる必要がある。確かに、マルチをしてあるビートの畝はその効果が発揮されていた。ではあったが、あんまり暑くて、あんまり雨が降らなくて、マルチの効果もついに限界に近付きつつあるようだ。敷き草を取り除くと、そこも地割れが起き始めていた。
          

 記:2013.8.9 島乃ガジ丸


ヤシガニ

2013年08月09日 | 動物:魚貝類

 野趣カニ

 私はかつて、ヤシガニを食った記憶がある。記憶はしかし、定かでは無い。「かつて」というのはいつごろかというと、おそらく30年ほど前。初めて八重山の旅をした時だと思う。初めて西表島へ行き、珍しいものをあれこれ御馳走になった時だと思う。が、その頃は日記をつけていない時代(数年続いている)だったので、確かめようが無い。
 ヤシガニの味も微かに記憶にある。肉は普通のカニ(タラバとかズワイとか)に比べて硬めだった。普通のカニに比べて水分が少なくパサパサだったが、味は濃厚だった。などという記憶だが、やはりこれも本当かどうか確かめようが無い。

  去年の秋、宮古諸島オヤジ二人旅へ出かけた時、同行の友人Kはさほど乗り気ではなかったが、「ヤシガニを食う」ことも私の目的の一つであった。食ったことがあるという私の定かでは無い記憶が、食べてみればはっきりするかもしれないと思ったのだ。
 であったが、宮古島での夜は、宿泊した宿での食事が、他の宿泊客や近所の人たちも加わって楽しかったのと、ホテルに泊まった時の夜は、入った飲み屋が面白い飲み屋だったということもあって、「ヤシガニを食う」目的はすっかり失念してしまった。

 ヤシガニは食えなかったが、野生の写真を撮ることはできた。野生ではあったが、既に死んでいた。いつ死んだか分からないものを拾って食おうとは私は思わなかった。ヤシガニはただでさえ中毒を起こす場合があるということを私は知っており、しかもまだ甲長が4センチほどの子ガニ、中毒のリスクをかけるほど食べる身も無いのであった。

 
 ヤシガニ(椰子蟹):甲殻類
 オカヤドカリ科の甲殻類 与論島以南~インド太平洋に広く分布 方言名:アンマク
 名前の由来を明記した資料は無いが、「ココヤシやタコノキに登って果実を食う」と広辞苑にある。ヤシの実を食べるからヤシガニ(椰子蟹)ということであろう。
 方言名はアンマクの他いくつもある。アンマクは沖縄、宮古ではマクガン、八重山ではマッコン、モーヤンなどと呼ばれているようだ。その由来についてはどれも不明。
 海岸に近い陸上に生息し、主にアダンの林の中に穴を掘って住む。文献にはアダンの他、ココヤシ、タコノキの名もあったが、沖縄では海岸近くの林というとほぼアダン。「ココヤシやタコノキに登って果実を食う」という広辞苑の記載も、沖縄では「主にアダンの果実を食う」と書き代えて良いと思う。ただし、ココヤシもタコノキも海浜植物で沖縄の海岸に多く植栽されているので、ヤシガニはきっとどれも食べている。
 成体は貝殻を背負っていないがヤドカリの仲間。殻を持たない代わり頭胸甲や腹甲が硬く丈夫になっている。幼生時代は海で過ごす。夜行性で、昼間は穴の中など暗い所に隠れていて、夜間に活動し、ヤシやアダンに登って食事する。巨大なハサミは強力。
 甲長10~15センチほどで、体重は1キロを越すものもある。食用となりカニ似た味とのこと。だが、まれに毒化したものがあり、中毒を起こすことがあるとのこと。

 記:2013.7.26 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『沖縄釣魚図鑑』新垣柴太郎・吉野哲夫著、新星図書出版発行
 『水族館動物図鑑』(財)海洋博覧会記念公園管理財団監修・発行
 『磯の生き物』屋比久壮実著・発行、アクアコーラル企画編集部編集
 『沖縄海中生物図鑑』財団法人海中公園センター監修、新星図書出版発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『サンゴ礁の生き物』奥谷喬司編著、株式会社山と渓谷社発行


オキナワハクセンシオマネキ

2013年08月02日 | 動物:魚貝類

 潮を望む

 潮という字を広辞苑で引くと5つの意味があり、良く知られているのは「潮の満ち干」の潮、「潮の流れ」の潮、それから「潮時」の潮があり、これらは私も知っている。
 潮時とは好都合の時、良い機会ということで、「もう諦めろバカ、相手は妊娠しているんだぞ、ここいらが独身を卒業する潮時だぜ」なんていう風に使う。

 「望む」という言葉を広辞苑で引くと3つの意味があり、「遠くからながめやる」、「願う。欲する。期待する」、「仰ぐ。慕う」とある。1は一望、2は希望、3は望郷などといった熟語がある。「丘に登ると眼下に町が一望できた。ここも漁師町、帰りたいと希望している故郷の景色に良く似ていた。望郷の念がさらに増した」などと使う。

  表題の『潮を望む』そのものは広辞苑に無いが、「潮」と「望む」それぞれの意味を組み合わせていくつかの文が作れる。例えば「潮時を期待する」といったもの。「待てば海路の日和あり」みたいな意味になる。季節季節に天気と畑を眺めながら「種播きの潮時、収穫の潮時」を待っている。農夫の私にとってはそれが『潮を望む』の第一義。

 シオマネキを広辞苑で引いたら「潮招き」という漢字表記もあったが、別に「望潮」ともあった。望潮と書いてもシオマネキと読むようだ。潮の引いた砂浜で、シオマネキは大勢でハサミを挙げ、沖に向かってオイデオイデしている。「潮が満ちてくるのを願って」いるのであろう。彼らとってはそれが『潮を望む』の第一義だと思われる。

 
 オキナワハクセンシオマネキ(沖縄白線潮招き):甲殻類
 スナガニ科の甲殻類 琉球諸島以南、南太平洋に分布 方言名:カタチミガニグヮー
 名前の由来は『沖縄海中生物図鑑』に「甲は淡青色で白い横線が数本走る」とあり、白い線なのでハクセン(白線)なのであろう。オキナワは、日本では琉球列島以南に分布することからであろう。シオマネキは広辞苑にあり、「干潮時に大きな鋏を上下に動かすさまが潮を招くように見えるからいう」とのこと。ちなみに、シオマネキは望潮とも書く。
 方言名のカタチミガニグヮーも解りやすい。カタは片、チミは爪、ガニは蟹、グヮーは小と書いて「小さいもの、可愛らしいもの」を表す。片爪の小さな蟹となる。
 その爪、蟹を食用とする場合は爪でいいが、学問的には鋏(はさみ)と言う。雄の鋏が片方だけ大きく、その鋏を上下に大きく振る。ちなみに、雌は左右とも小さい。
 甲幅18ミリていどの小さなカニ。河口や内湾の比較的硬い砂泥地に生息。

 記:2013.7.21 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『沖縄釣魚図鑑』新垣柴太郎・吉野哲夫著、新星図書出版発行
 『水族館動物図鑑』(財)海洋博覧会記念公園管理財団監修・発行
 『磯の生き物』屋比久壮実著・発行、アクアコーラル企画編集部編集
 『沖縄海中生物図鑑』財団法人海中公園センター監修、新星図書出版発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『サンゴ礁の生き物』奥谷喬司編著、株式会社山と渓谷社発行


天啓の音楽、人間の音楽

2013年08月02日 | 通信-音楽・映画

 先週、「なんくるみー畑」の話を書いて、静岡のまり子さんのことを思い出して、久々に彼女のブログを覗いた。去年は4コママンガを多く載せているが、今年は1つの記事しかない。彼女はブログより先端をいくツイッターに移行しているみたいであった。
 まり子さんを思い出したついでに鈴木亜紀も思い出した。鈴木亜紀はシンガーソングライターピアノ弾きで、一時私が惚れた女性。で、彼女のHPも久々に覗いてみた。彼女もツイッターをやっているようだが、ブログはこれまでと変わりなく時々更新されている。これまでと変わりなく貧乏暮らしのようだが、お元気そうで何より。

  私が鈴木亜紀に惚れていた、というのはホント。彼女のどこに惚れたか?・・・彼女は見た目可愛いけれど美人というほどでは無い。深く長く話をしたことがないので彼女の性格が良いということも言えない。もっとも、私は見た目で女に惚れる男だと思っている。見た目はでも、美人かどうか、おっぱいが大きいかどうかなどでは無く。大雑把にいえば表情。表情は澄ました顔でも笑い顔でもその人の心を表現していると思う。なので、深く長く話をしたことがなくてもその人の性格に惚れるという可能性は十分にある。
 しかし、私が鈴木亜紀のどこに惚れたかはたぶん、ここであろうと判っている。彼女に惚れたのは彼女のライブを初めて聴いた時だ。私は見た目(可愛いけど)では無く、彼女の歌に惚れている。「こんな詩を書いて、こんな曲をつけて、こんな風に歌う人は間違いなくイイ女である。稀に見るイイ女である」と思ったのだ。で、惚れた。
          

  去年の秋、鈴木亜紀のライブが実家の近くのライブハウスであった。そのライブハウスの前を通りかかった時に私はそれを知った。が、だいぶ迷ったけれど、ライブには行かなかった。その年の夏に仕事が休職となり、収入源を失くした私は生活費削減中で、ライブを聴く金を惜しんだのであった。ちなみに、生活費削減は、30年以上続けてきた模合(モアイ:月1回の飲み会)を辞める、ビールが発泡酒になる、髪にも洗濯物にもリンスを使わない、総菜は3割引き~半額になってから買うなどといったもの。
 そういえば、6月にはEPOのライブもあった。EPOについては2007年8月のガジ丸通信に書いている。彼女の音楽の事を私は「まどろみ音楽」とし、「スグレモン」と評価している。そのEPOのライブ、しかも、EPOが沖縄に移住しての初ライブだ。沖縄に住んで生まれたEPOの音楽、とても興味を持ったが、やはり行かなかった。
          

  私は音楽を正式に勉強したわけでは無いので、学問的にあれこれ評価することはできない。私の言うことはまったく私の勝手な感性による、と言い訳して勝手なことを言うが、EPOの音楽は「天啓の音楽」、鈴木亜紀の音楽を「人間の音楽」と捉えている。
 「天啓の音楽」は精神が聴き、「人間の音楽」は心が聴く、と前置きしてさらに生意気なことを言わせて貰うと、私の感性によれば、「天啓の音楽」はモーツァルト、「人間の音楽」はベートーヴェンである。どちらの音楽も私は好きである。
 EPOのまどろみ音楽を聴いた時、彼女に「抱かれたい」気がした。鈴木亜紀のある1曲を聴いた時、彼女を「抱きしめたい」と思った。つまり、「抱かれたい」EPOは「天啓の音楽」で、「抱きしめたい」亜紀は「人間の音楽」となる。私の場合、だ。
          

 記:2013.8.2 島乃ガジ丸