戦跡として有名な糸満市にある『ひめゆりの塔』は、看護補助要員として動員された女学生で戦死、または自決した方々を慰霊するものだと聞いている。「ひめゆり」は彼女達がひめゆり学徒と呼ばれたからとも聞いていた。しかし、今回調べて分かったことだが、それは彼女達を偲んで、あるいは称えて、戦後つけられた名前とのことであった。
ひめゆり学徒たちが最初に勤労奉仕に従事した場所は南風原陸軍病院だということをおぼろげに記憶していて、そこへ行ってみたいと前から思っていた。で、2007年8月23日のお昼頃、仕事が近くであったこともあり、私は南風原陸軍病院壕跡を訪れた。
辺りを散策したが、壕の入口は見当たらなかった。入口らしき所があって、その横に立てられていた看板の文章を読むと、「現在は、20号壕、24号壕の公開に向けての準備を進めています。」とあり、「南風原文化センター 2002年」と書かれていた。私が訪れた2007年は、まだその準備ができていなかったと想像された。
今年(2013年)6月末、実家にあった戦争遺留品を寄贈するため南風原文化センターを訪ねた。そこは黄金森という名の広い公園の中にあり、建物はまだ新しかった。訊けば2009年にオープンしたとのこと。黄金森公園の中には沖縄陸軍病院南風原壕群跡もあるとのことだったので、寄贈を済ませ、センターを出て壕跡の見学に行った。
「センターのすぐ後ろに飯上げの道という名の坂道があります。それを上っていけば壕跡に行けます。あそこです」とセンターの係りの人がわざわざ外に出て指差してくれた。飯上げの道とは、食事を作ったのはセンターのある辺りにあり、そこから飯を運んだところからきている名のこと。太陽がガンガン照り付ける暑い中、坂道を上った。
入口からすぐ、10mも行かない内に見覚えのある景色があった。「悲風の丘」と看板があり、それで6年前の記憶が蘇った。「ここは1度来ている」と気付いた。「確か、南風原陸軍病院で亡くなった人々を慰霊する塔のあるところだ」と中へ入ると、その通りであった。2007年当時は原野のような中にあった塔であった。
そこから壕跡へ向かう道も整備されていて全く見覚えのない景色が続いた。壕跡の入口も整備されていて案内所となっている建物も建っている。私が2007年8月に見た壕跡の標識が立っていたところはどこなのか全く見当がつかなかった。後日、センターの人に写真(2007年8月の)を見せると、「そこは今の出口辺りに立てられていたものだと思います」とのこと。出口辺りを見ると、そうかもしれない地形であった。
沖縄陸軍病院については、南風原文化センター作成のチラシの説明をそのまま拝借。
沖縄陸軍病院(球18803部隊)は1944(昭和19)年5月に熊本で第32軍の陸軍病院として編成された。
6月から那覇市内で活動を始めたが、同年10月10日米軍空襲によって施設が焼却し、南風原国民学校校舎に移転した。それ以降、第32軍野戦築城部隊の指導のもとで、字喜屋武(黄金森)と字兼城(現在の役場北側の丘)に約30の横穴壕が造られた。
米軍の艦砲射撃が始まった1945(昭和20)年3月下旬陸軍病院は各壕へと移った。広池文吉病院長以下、軍医、看護婦、衛生兵ら約350人に加えて、3月24日には沖縄師範学校女子部・県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222人が教師18人に引率され、看護補助要員として動員された。
4月1日に米軍上陸後、外傷患者の激増に対応するため、外科を第一外科、内科を第二外科、伝染病科を第三外科へと改めた。5月下旬、第32軍司令部は摩文仁(糸満市)へ撤去を決定し、陸軍病院に撤去命令が出された。その際、重症患者に青酸カリが配られ、自決の強制が行われた。
南風原町は1990(平成2)年戦争の悲惨さを伝える証として、第一外科壕群・第二外科壕群を町の文化財に指定した。
沖縄陸軍病院南風原壕群跡
第二外科群の内、現在、20号壕が整備され公開されている。
見学には予約が必要で以下の決まりごとがある。
・一度に入る人数は10名以内
・全員必ずヘルメットを着用(現場無料貸出)
・懐中電灯を使用(現場無料貸出)
・常駐ガイドが案内する
・見学時間は1グループ20分程度
これらの他、私がガイドから注意されたこととして、
・ガイドの指示に従う
・壁や天井に触れない(土が崩れやすいとのこと)
・天井の低い所があるので頭上に注意する
なお、写真撮影は許されている。私は手にカメラを持ちながら、撮り忘れた。
記:2013.8.14 ガジ丸 →沖縄の生活目次