保険会社のオーナー、イスマエルの物語には同社の支配人、ドン・リゴベルトが絡んでくる。と言うよりもほとんどリゴベルトの物語と言ってもよい。この人物は1988年の『継母礼讃』と、1997年の『官能の夢~ドン・リゴベルトの手帖』(原題は「ドン・リゴベルトの手帖」であって、「官能の夢」などという言葉は出てこない)に出てくる。
ドン・リゴベルトの一家は再婚の妻ルクレシアとリゴベルトの連れ子、フォンチートと彼の3人で、二つの作品で3人は、理想的な性的関係を樹立していき、それが聖性にまで至るというお話なのだが、この3人がいささか聖性を薄められた状態で再登場する。
ドン・リゴベルトはその洗練された絵画趣味と、美しい妻への愛にうつつをぬかしているわけにはいかず、イスマエルの結婚とその直後の突然死が引き起こしたトラブルを解決しなければならないからだ。
このまったく無関係な二つのトラブルは、一方はドン・リゴベルトの努力によって、もう一方はフェリシト・ヤナケと警察署のリトゥーマ軍曹の努力によって解決に向かっていく。このリトゥーマ軍曹というのも『緑の家』にも出てくるし、1993年の『アンデスのリトゥーマ』では主役をつとめる人物なのである。そこにもリョサの思い入れが窺える。
ヤナケの方のトラブルも結局はマフィアの仕業などではなく、ヤナケの息子とヤナケの愛人が共謀して企んだ事件であることが明かされる。つまりは二つとも家庭内トラブルにすぎないのである。だからこの作品は「つつましい英雄」と言うよりは「つつましい事件」あるいは「つつましいトラブル」とでも言うべきものなのだ。
しかし単なる家庭内トラブルについて、これほどスリリングに、面白く語るというのは、やはりバルガス・リョサの力量を証明するものと言わざるを得ない。ノーベル賞受賞後、肩の力を抜いて軽めに書いた作品という印象が強いのに、最後まで緊張感を持って読ませる。
ところで、不気味なエピソードが一つ。ドン・リゴベルトの物語の中に、息子のフォンチートが、エディルバルト・トーレスと名乗る神出鬼没な悪魔のような人物に執拗につきまとわれ(フォンチートは彼に共感を持ってさえいるのだが)、それがフォンチートの嘘であるのか、それとも妄想であるのか、あるいは事実であるのか、リゴベルト夫妻には判断できないため、息子のことを異常に気遣うというエピソードである。
このエピソードは最後まで繰り返されて、この作品の中で唯一超自然的な現象をほのめかす部分となっている。しかし小説のラストで、一家がすべてのトラブルを解決してヨーロッパ旅行に向かう機中で、フォンチートが「ここにいるよ、パパ、ここの機内に、パパの後ろに坐っている。そう、そう、エディルバルト・トーレスさんだ」と言い、それがまったくの嘘であったことが明かされる時、もう一つのトラブルもまた解決されるのである。
結局この小説はリョサの作品にとしては珍しく、ハッピーエンドに終わるのであるが、この小説でリョサが言いたかったことは、フェリシト・ヤナケの勇気に対する賞賛に止まるのではない。リトゥーマ軍曹やドン・リゴベルトの、トラブルを何とか穏当に解決しようとする地道な努力への賞賛もそこには含まれていると思われる。
もう一つ言っておきたいことがある、この作品には若い時のリョサの実験的な手法の名残が見られることである。登場人物二人の会話が次の行で突然、場所も時間も異なった会話に転換するという手法である(共通項はその時の話題)。『ラ・カテドラルでの対話』でリョサが多用した手法であるが、この作品ではより円熟したものとして何の違和感もなく受け止められるものになっている。
とにかく、ノ-ベル賞作家、バルガス・リョサのストーリーテリングの図抜けたうまさを満喫できる一冊であり、好感の持てる作品である。
マリオ・バルガス・リョサ『継母礼讃』(1990、福武書店)西村英一郎訳
マリオ・バルガス・リョサ『官能の夢~ドン・リゴベルトの手帖』(1999、マガジンハウス)西村英一郎訳