玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

バルガス・リョサ『つつましい英雄』(2)

2016年06月04日 | ラテン・アメリカ文学

 この作品は貧しい生い立ちから実直に働いて、今は運送会社の社長として成功しているフェリシト・ヤナケの家の玄関に、青い封筒が鋲で打ち付けられているのが発見される場面から始まる。
 その封筒にはマフィアからのものと思われる脅迫状が入っていて、月々500ドル払えば、社長や家族の安全、事業の継続が保証されるということが書かれている。
 リョサの小説の書き出しはどれも、読者の心をがっしりと掴んでくるが、『つつましい英雄』の書き出しは他の作品に比べても格段によくできていると思う。恐怖を孕んだ慇懃無礼な脅迫状のトーンと、それに加えて不吉な蜘蛛の絵の視覚的イメージが取り憑いて離れないまま、読者はこの小説に引き込まれていく。
 フェリシト・ヤナケはこの脅迫状を警察に持ち込み、新聞紙上に「私は私の身を守るために要求された金をけっしてあなたたちに払わないことを公にあなたたちに通告する。そのようなものを払うよりも私は殺されるほうを選ぶ」という広告を出して、犯人達に敢然と立ち向かうのである。
 この作品のタイトルは、市井に生き無名であっても、巨悪に対して決して屈しないヤナケのような人物が、世の中を支えているのだという作者の認識から来ている。しかし、これからどういう展開が待っているのか、ヤナケはどんなひどい目に遭うのだろうかという、読者のストーリーへの期待に添って物語は進んでいく。
 この小説にはもう一つの物語の軸があって、そちらの方はヤナケの脅迫事件とはまったく無関係に進行していく。二つの物語を対峙させて、交互に語っていくというやり方はリョサが2003年の『楽園への道』以来、繰り返している方法であり、自伝『水を得た魚』もこの手法で書かれている。
『緑の家』では三つの物語が交錯し、それらがほとんどアトランダムに語られているが、きちんと章を分けて交互に語るようにしたのは、やはり読者に対するサービスからなのであろう。これを実験的な挑戦的精神の喪失と言って批判するよりは、素直にその分かりやすさを喜んで受け入れるべきだと思う。
 現実というものは確かに、図式的に生起するものでもないし、その不規則性において理解されるべきものかもしれないが、それを再構成するのが言葉である限り、言葉によってのみ語られる文学は不規則性や不連続性をそのままなぞっていくわけにはいかない。
"語る"ということそれ自体が言語の法則性を逃れることを許されないのであるから、それはどうしても"整序"の行いであらざるを得ない。そうでなければ、言葉が読者に伝わるということは起こり得ないであろう。また現実というものは語られてこその現実なのであるから、はじめから整序の行為の中に回収されているとも言える。
 しかし、その"整序"からの"逸脱"をどのようにして言語によって実現していくかということも、文学にとって重要なことは言うまでもない。『緑の家』の場所と時間のランダムな構成という実験が、そのような逸脱の実践であったとしても、もし『緑の家』の場所と時間を正常なものに直して語り直すことが可能であるならば、それは本当の逸脱とは言えないであろう。
 二つの物語の交互的進行という形式は、あまりにきちんとしていて図式的にすぎるかも知れないが、この互いに無関係な二つの物語が最後に交差する時に、読者は深く納得するであろう。
 ところでもう一つの物語とは、巨万の財産を築いた保険会社のオーナー、イスマエル・カレーラが80歳を超えているにも拘わらず、36歳年下のしかもメイドのアルミダと結婚しようとするものである。それはイスマエルによって、遺産相続人たる二人の息子の逆鱗に触れるだろう行為であることが意識されている。
 ここでも、ハイエナのような二人の息子とイスマエルの間に、どんなトラブルが発生してくるかというサスペンスへの期待が膨らんでくる。二つの大きな危機を孕んだ物語が緊張感を持って進行していくというのがこの作品の特徴なのである。