前にも書いたが、最新作『つつましい英雄』を読んでも分かるとおり、マリオ・バルガス・リョサはリアリズムの陣営に属する作家である。そのことは自分自身でも認めていて、今読んでいる『水を得た魚』でも次のように書いている。
「小説というジャンルにおいては、どうしても私はいわゆるリアリズムへの執着を捨てることができないが、詩においては、輝かしい非現実的世界が私の好みであり、少々気障な表現や心地よい音楽が伴っていればなおさらいいと感じる。」
詩はもともとリアリズムなどという概念のない時代に出発しているわけだし、小説こそが文学史上比較的近年になってリアリズムという概念を創造したのであるから、リョサのような小説と詩における趣味の乖離は異とするに足りない。
しかし、小説におけるリアリズムとは、現実に起きた事実を忠実になぞっていくことを意味しているのではない。そのことをリョサは『嘘から出たまこと』という小説論で繰り返し書いている。
事実は一つしかないが、「それを描く記号は無限である」。そのうちの一つだけを選んで、他を捨てて書くとすれば、そこに質的変化が起こる。リアリズムでさえ事実そのものを描くのではない。そしてそのような議論はリアリズム作家だけでなく、幻想的作家の場合にも当てはまる。続けてリョサは次のように言う。
「幻想文学の「非現実」は読者にとって、実生活で認識できる経験や現実のシンボルやアレゴリー、つまり間接的表現となっている。重要なのはこの点であり、挿話の「リアリズム性」・「幻想性」がフィクションにおける真偽の境界線を画定するわけではない。」
このように言うリョサは、リアリズムの側にいながらも、リアリズム小説を至上のものとし、非リアリズム小説を貶めるようなことはしない。現実との関係の取り方が直接的であるか、間接的であるかの違いでしかないのだし、もともと小説はフィクションであって、作り話であるのだから、「リアリズム性」だけが小説の真実を保証するわけではない。
ということで、2002年の『嘘から出たまこと』(1990年版の増補改訂版)という小説論集でリョサは、36編の作品を取り上げているが、そこにはリアリズム小説だけではなく、幻想小説も含まれているし、ゴシック小説でさえ含まれている。
リョサは非リアリズム小説を侮蔑するような教条主義的リアリズム作家ではない。20世紀の小説36編の中には、アンドレ・ブルトンの『ナジャ』や、アレホ・カルペンティエールの『この世の王国』さえ入っているのである。
この小説論を私は大変面白く読んだし、多少の例外を除いてこれまで読んでいなかった作品について、是非読んでみたいと思わされることになった。リョサの使嗾によって初めて読んだ作品で、とりわけ深い印象を残した2冊がある。ブルガリア出身のユダヤ人作家、エリアス・カネッティの『眩暈』と、デンマークの作家、アイザック・ディネーセン(イサク・ディーネセン)の『七つのゴシック物語』がそれである。
カネッティは1981年のノーベル賞受賞作家である。私は『眩暈』を読んで、およそ吐き気をもよおすようなその狂気じみた世界に衝撃を受けたが、そこに表現されているものが何のアレゴリーであるのか、リョサはきちんと解き明かしている。
私はそれよりも、このような作品に賞を与えるノーベル文学賞の行き届いた選考に驚いたのである。いかにその作家がマイナーであっても、いかにその作品がグロテスクであっても、問われているのは文学としての質なのだ。広く読まれているかどうかなどノーベル賞の基準ではない。私は村上春樹が受賞できない理由をはっきりと理解したのである。
ディネーセンの『七つのゴシック物語』は、現在でもゴシック小説が生き続けていて、その価値を喪失してはいないのだということをはっきりと示した作品であった。また現在では女性こそがゴシックの伝統を正統的に引き継いでいるのだ、ということを分からせてくれる作品であった。
この二人の作家の作品に触れることが出来たことを、リョサに対して深く感謝している。
マリオ・バルガス・リョサ『嘘から出たまこと』(2010、現代企画室)寺尾隆吉訳
(この項おわり)