ペルー大統領選挙の決選投票の結果が気になっている。投票前はアルベルト・フジモリ元大統領の娘であるケイコ・フィジモリ候補の優勢が伝えられ、それを危惧したバルガス・リョサが「罪に問われ、収監されている独裁者の娘が当選したら国の破局だ。阻止するために、あらゆる手段をとる」との声明を出したことも伝えられたからだ。
『水を得た魚~マリオ・バルガス・ジョサ自伝』が3月に水声社から出たので、さっそく読んだのだが、最初は"自伝"であるのだから、自身の生い立ちから文学への目覚め、そして作家となりラテン・アメリカ圏の作家達とどのように交流したのか、あるいはキューバのカストロ首相の政策を巡って、どのようにガルシア=マルケスと不仲になったのか……というような内容を期待していた。
しかし、『水を得た魚』にはリョサの少年時代から、23歳でヨーロッパ留学の夢を実現させ、二度とペルーに帰らないつもりで空港を飛び立つところまでしか書いてない。なぜそんな中途半端な自伝になっているかというと、それにはちゃんとした理由がある。
だいいち『水を得た魚』の原題には「マリオ・バルガス・ジョサ自伝」などというサブタイトルは付いていない。この本の主要なテーマは1987年にリョサが政治の世界に足をつっこみ、大統領選に担ぎ出され、1990年6月のアルベルト・フジモリとの決選投票で敗北するまでの政治体験なのである。
リョサの文学的履歴書を期待していた者には肩すかしを食らわせる本なのだが、これまでリョサの大統領選出馬についての詳しい情報を何も知らなかった者にとっては、その実体についての興味深いドキュメンタリーとなっている。
リョサの作品の解説には、この大統領選出馬についてたいていひと言書いてあるが、"途中で出馬を諦めた"とか"決選投票を降りた"とかいう不正確な情報しかなかったし、そもそも何でリョサが大統領選に出ようとしたのかについて書いてあるものもなかった。だから、この本の邦訳が出るまでリョサの政治活動については、何か文学者にとっての"汚点"のようなイメージが伴って捉えられていたきらいがある。
私はあるウルグアイ人のミュージシャンとラテン・アメリカ文学について英語で少し話したことがある(私の英語力など惨めなものだから話題に出した程度)。私が「リョサの小説が好きだ」と言うと、そのウルグアイ人が「リョサは逆卍だから、気をつけろ!」と応えたことが気になって仕方がなかった。
私はリョサの小説にファシスト的要素など微塵も感じたことはないし、それどころかリョサの小説の最も大きな原動力になっているものは彼の自由への渇望に他ならないと思っていた。
だからそのウルグアイ人の発言は奇異なものであったし、ひょっとしてそれはリョサの政治活動、つまりは1990年の大統領選出馬に関わることなのだろうか、という一抹の不安を感じたことも事実である。
私の危惧はこの『水を得た魚』を読んで払拭されたように思う。そのウルグアイ人の言っていたこともとうてい納得はできないものの、リョサの政治的スタンスからしてどういう意味を持っているのか理解は出来たと思う。そのようなことをこの『水を得た魚』に即して、少し書いてみたいと思う。
リョサは大学時代に左翼運動に身を投じている。サルトルのアンガージュマンの思想に影響され、ペルー共産党党員と行動を共にしていたこともあるし、カストロのキューバ革命を礼讃してやまない青年でもあった。
しかし、文学に身を置こうとする者には、いつか左翼思想への幻滅の瞬間がやってくるものである。日本の場合でも、戦前の左翼運動からの転向と挫折は、いわゆる"戦後文学"に見事に結実しているし、今日70歳代を迎えようとしている団塊の世代が、全共闘運動からの転向と挫折で経験したこともそれと同様の背景を持っている。
リョサもまた、そのような転向と挫折を経験している。そのことは『水を得た魚』の自伝部分にはほとんど書かれていないが、大統領選部分を読むとおおよその見当が付くように書かれている。
(この項、寺尾隆吉の表記は"ジョサ"であるが、私は"リョサ"と表記したいので、二つの表記が混在する。)
マリオ・バルガス・ジョサ『水を得た魚』(2016、水声社)寺尾隆吉訳