リョサは『水を得た魚』の自伝部分で、政治活動への目覚めが、ジャン=ポール・サルトルのアンガージュマンの思想の影響によっていたことを告白している。実は私も高校生の時に、サルトルの著作を多数読み、政治へと煽動された人間の一人である。
サルトルは「飢えた子供の前で文学は無力だ」と言ったが、こうした考え方を突き詰めれば、飢えた子供に食糧を与えることが出来るのは政治以外にあり得ず、文学はまったくの無価値だという思想に行き着く。
確かに私も文学を通して政治に目覚めていった人間である。当時世界の思想界に君臨していた知識人であったサルトルが、そのような流れを先導したのである。文学は無価値であり、アンガージュマン(政治参加)こそ必要な行動であるとサルトルは言った。
しかしこの考え方は間違っている。政治というものが究極的には暴力に行き着く(戦争がその最終段階)のだとしても、それが言葉によって行われる行動であることは否定できない(戦争でさえ、暴力に附随する言葉の影響を受ける)。文学もまた言葉によって(言葉によってのみ)行われる行為に他ならない。ならば政治が優位におかれ、文学が劣位におかれなければならない理由などあり得ない。
ただし政治の言葉が短期の射程しか持たないのに対して、文学の射程が長期の射程を持つものであるから、目先のことしか考えることが出来ない人間にとっては、どうしても政治の言葉の方が有効であるかのように思われてしまうだけだ。
また、文学の言葉が広く一般に受け入れられるものであるとは限らないのに対して、政治の言葉はポピュリズムの戦略によって多くの大衆に届くという違いもある。だから多数派工作にのみ重要性を求める者は、その有効性において政治の言葉が優位にあると錯覚するのである。ファシズムが民主主義から生まれたという歴史的事実もそこに原因が求められる。
だから、文学の言葉が政治の言葉の劣位にあるなどという考え方は、とうてい受け入れることのできないものである。サルトルの思想は政治を優先するために、絶えず文学者に対して脅迫を与え続けることになる。文学は居心地の悪いものとなり、いつでも「こんな無意味なことをしていていいのだろうか」という不安の意識を文学者に与えることになる。
このような考え方は、いつでも文学を政治のために奉仕させようとした、共産主義の思想と何ら変わるところはない。ソ連や中国そして日本でも、共産主義とその党はそうした役割を果たしてきた。それが結局は、文学というものを死滅させ、人間から自由な表現を奪う元凶となったのである。
若い時にはサルトルの思想に大きく支配されていたリョサも、いつしかサルトルの考え方を軽蔑するようになっていく。だから1987年にリョサが政治活動を開始したとしても、それはサルトルの思想に影響されたためではない。
むしろペルーの外にいても、故国ペルーの政治状況が気になってならないという、一種の"愛国心"(それはナショナリズムとはまったく違うものだとリョサ自身言っている)によるものであっただろう。
リョサは政治の言葉が文学の言葉より優位にあるなどという迷妄を信じたことのない作家であった。1990年に26編で出した『嘘から出たまこと』に、2002年に10編を加えて増補改訂版を出したことにも、その証拠は見て取れる。
この本の序文は2002年の日付を持っていて、大統領選挙敗北後、リョサが文学の言葉に対する信頼についてもう一度確認したかったのだ、ということを窺わせる文章である。リョサは小説の言葉の力への信頼を語る。
「確かに19世紀――トルストイ、ドストエフスキー、メルヴィル、バルザック、そしてフローベールの世紀――は小説の世紀と呼ぶにふさわしいが、20世紀とてこれに劣るわけではない。様々な言語と文化的伝統を背景とした小説家達のなかには、すでに物語文学の最高峰まで登りつめた作家と張り合えるだけの野望、妄想にも似た大胆さを備えた者たちがまだ残っていたのだ。本書で取り上げたわずかばかりの作品を見れば、文学の未来をめぐって悲観的な予言が飛び交うなか、神殺しの民たる小説家はいまだ健在で、歴史の不備を補うべくいつも機会を窺っていることがよくわかるだろう。」
"神殺しの民"というのは、創造者に代わって言葉による創造を行う者と理解していい。リョサは『嘘から出たまこと』の巻頭を飾る最初のエッセイの末尾にも、フィクションとしての小説について感動的な言葉を書き記している。それについて論ずるのはまた別の機会にしたいが、それが1989年の日付を持っていることからも、大統領選のさなかでさえ、リョサは文学の言葉への信頼を失っていなかったのだということを指摘するに止めておきたい。
「フィクションはそれ自体、体制やイデオロギーに支配された人間の在り方を厳しく問い質し、その問題点、人の満足を妨げる不備を赤裸々に暴く。だからこそ人を従順に手懐けようと迫る権力への抵抗力として機能する。自由から生まれた文学の嘘は権力の嘘を明るみに出す。今後もフィクションは、その役割を担って、策略を張り巡らせるに違いない。」
マリオ・バルガス・ジョサ『嘘から出たまこと』(2010、現代企画室)寺尾隆吉訳
(この項おわり)