「天井夢」
渋澤龍彦の天井夢について読んで、私自身の天井の夢をもう一つ思い出したので、紹介しておこう。それは夢とも幻覚ともつかぬものであるが、一応短いのと視覚的であることから、幻覚であったのだろう。
天井は私にとって意味を読み取られるべき空間である。そのことは前に言った。天井パネルは小さめの単位に分割されているから、視界に入ってくる天井パネルは複数あることになる。それら複数のパネルがそれぞれ違った意味を持ち始めたらどうなるだろうか?
それぞれのパネルが違った情報をもたらしてくるとしたら。実際にその時の幻覚はそうしたものであって、一枚にはお酒の宣伝のようなものを、もう一枚にはレストランの宣伝のようなものを読み取ることが出来た。
なかなか鮮明にならずに歯がゆいのだが、徐々にパネルの一枚が画像と文字を組み合わせたお酒の宣伝になっていく。最初は静止画であったものが、徐々に動画になっていく。駅などにあるデジタルサイネージというのの天井版である。これはきっといつも仰向けに寝ている人のために開発されたのに違いない。
パネルは一枚一枚独立した画像や動画を映し出していく。なかなかたいしたシステムである。私は「これは幻覚かも知れないが実用化されてもおかしくないシステムだ」などとおかしなことを考えている。
「天井夢」追加
「ゴシック・ロックの演劇」のところにも追加を思い出したので、これも紹介する。演劇が終わって、劇中で演奏された曲目の紹介が行われる。それが天井パネルを使った誠にスマートなものになっている。
パネルの一枚一枚が一つの曲の紹介になっていて、曲目、改題、演奏者などが細かく書いてある。私は「うまい使い方だなあ」と思っている。トラバーチン模様の黒い図形が一つ一つ、細かい文字に置き換わってしかも大変効率よく配置されているのである。
天井の夢は以上のようなものである。渋澤の天井に地図が現れたように、天井の模様は見る者にとって、どんなに突拍子のないものであれ、意味を持たざるを得ないのである。人間は夢にも幻覚にも意味を求める動物なのだ。