一方主人公リュシアンは、ダヴィッドとは対照的な人間として描かれていく。リュシアンの詩人としての才能をパリで開花させるという欲望に火をつけるのは、バルジュトン夫人である。彼女はリュシアンにリュバンプレという母方の貴族の家名をつけるため、パリの貴族社会に取り入って、国王の裁可を売るという計画をも唆し、天才の政治学を吹き込みさえする。それは次のようなものだ。
「大きな仕事を完成しなければならないので、天才は誰の眼にもあきらかなエゴイズムをしいられ、自分の偉大さのために一切緒を犠牲にせねばならぬ。(中略)天才は天才にのみ所属している。彼のみがその手段の審判者である。天才だけがその目的を知っているのだから。で、おきてをつくり直すべき人が彼であるから、かれはすべてのおきてを超越しているべきだ。」
まるでドストエフスキーの『罪と罰』におけるラスコーリニコフの超人思想のような考え方に、リュシアンは自分の力で到達するのではない。バルジュトン夫人に唆されているにすぎないのだ。リュシアンの心にはナポレオンのことが浮かび上がる。実にナポレオンは19世紀における天才の優生学の典型的な目標であったのである。バルザックはリュシアンの心を冷静に分析している。
「元来リュシアンはこういう性格なのだ。悪から善へ、善から悪へ、どちらへもひとしい揺れかたでらくらくと移って行く。」
第2部「パリにおける田舎の偉人」は、このような頭に乗りやすく優柔不断なリュシアンが、ジャーナリズムの世界と貴族社会に翻弄され、次第に信用を失っていく物語として進行する。つまり、タイトル通り「幻滅」こそが、この小説の最も大きなテーマなのである。
この作品が出現するまで、ジャーナリズムの世界を登場させる小説はなかったという。ヴィクトル・ユゴーへの献辞としてバルザックが次のように書いていることが、作者の意図をよく示している。
「ある人々の言うところでは、この作品は真実にみちたる物語であると同時に、勇敢な行為でもあるというのですから。新聞記者というものも、侯爵や財政家や医者や代訴人と同様に、モリエールとその劇に属すべきものではないでしょうか?」
確かに『幻滅』は当時のジャーナリズムの虚妄の世界を徹底的に描き尽くして、極めて〝現代的〟である。当時はそのように読まれ、認識されたはずである。そればかりでなく私が印刷業界について指摘したように、この部分でも19世紀がつい最近の20世紀と地続きであることを『幻滅』は教えてくれるのである。
しかし、ジャーナリズムの世界に踏み込む前に、バルザックは当時の文学・哲学サークル「セナークル」に集う人物達を描いていく。パリに出たリュシアンが最初に接するのは、このグループであって、リュシアンはその後ジャーナリズムの世界に足を踏み入れることによって、グループの期待をことごとく裏切っていくことになる。
セナークルのメンバーの何人かが登場してくるが、一番魅力的なのは「最初の友」として紹介されるダニエル・ダルテスであろう。彼はリュシアンの作品を読んで彼の才能を認め、小説作法を伝授するのだが、それこそがバルザックが自覚的に取り組んだ小説の方法ではなかったかと思われるくらいダルテスの理論はリアルなのである。たとえばウォルター・スコット情熱の欠落を指摘して言うダルテスの言葉はこうだ。
「情熱は無限の事件を生み出す。だからさまざまな情熱を描いてごらんなさい。あの偉大なる天才スコットが猫かぶりの国イギリスのあらゆる家庭で自分の作品をよんでもらいたさに捨ててしまった莫大な資源をあなたは手に入れることができますよ。」
リュシアンはそれを手に入れることはできなかったが、バルザックは圧倒的にそれを手中にしたのであった。