「セナークル」のメンバーたちはこのように、文学や哲学というものに係わる時に、策を弄してのし上がろうなどという野心を抱くことなく、貧困に耐えながらひたすら研鑽に励むことによって、世間に認めさせようという、いわば古めかしい知識人像を代表している。しかしリュシアンには彼等のような忍耐力がない。リュシアンにとって成功の手段は、唯一金である。
《ああ、なんとかして金をえること! 金だけがああいう連中をひざまずかせる唯一の権力なんだ》
というのがリュシアンの考えであり、それによって彼は失敗を運命づけられてしまうのだと言ってもよい。
リュシアンが次に接触するのは出版業界である。彼が「シャルル九世の射手」という自分の小説を売り込もうとすると、無名の作家の作品などほとんど相手にされず、足元を見られて買いたたかれそうになる。また彼の詩集にいたっては、全く歯牙にもかけられない。当時から詩集などというものは、出版業界にとって金に結びつかないものであり、そのことは現代でも変わってはいない。また、次のように言う出版業者を登場させているところを見ると、出版ということの事業の性格も現在とそれほど違っているとは思えない。
「このわしはな、なにも道楽で本の出版をしたり、二千フランもうけるのに三千フランを危険にさらす、そんなことしているのじゃないんだ。わしは文学で投機をやっている。」
いよいよジャーナリズムの世界が登場してくるが、これが、出版業界や劇場と利害関係が複雑に絡み合っていて、読んでいてそら恐ろしくなる。出版屋はジャーナリストに提灯記事を書かせて、自分の本を宣伝し、今でいうベストセラーを狙う。記者はだから自分の判断や評価で批評を書くのではなく、出版屋の意向に添った記事しか書くことができない。そのかわり多額の原稿料を約束されたり、出版された本をもらってその本を転売することで、生計の足しにするのである。現在と違うのは少しくらい本をもらってもたいした金にはならないということくらいである(当時の本は富裕層しか買えない高価なものであった)。
それは劇評でもまったく同じことで、劇場の依頼でその意向に添った記事を書き、原稿料の他にチケットをもらって、それを売り捌くことで生計を立てるというのが、当時の記者たちの生活のあり方だったのである。まさに賤業と言ってもよいだろう。
こういう世界にリュシアンは足を踏み入れていくことになるが、かつての仲間の作品の価値を貶める記事を書いたり、質の低い作品を過大に評価する記事を書いたりしていくうちに、次第にリュシアンは社会的信用を失っていく。正に自業自得である。目先の成功に足下を掬われ、さらに王党派と共和派の政治的闘争にも巻き込まれ、貴族社会に縋りつくしかなくなるが、田舎出の出自も定かでないリュシアンは、いかにその美貌ありといえども、貴族社会に受け入れられることはないのである。
以上がカルロス・エレーラが彼の前に姿を現すまでの『幻滅』の基本的なストーリーである。バルザックはさまざまな当時の社会階層を描くことによって、リュシアンのおかれた環境を構築していくのだが、それが必ずしも古びていないこと、あるいは現在も当時もそんなに変わりがないということによって、彼の方法の価値を評価することができる。
とくにこの『幻滅』が、印刷業界や出版業界を描くことで、一九世紀から二〇世紀に連綿とつながる人間社会の一業態を不変の相において捉えていることが、この小説を古びたものにさせない一つの要因になっている。この二つの業界は他の作品では登場することがないから、そのことがこの作品を特殊なものにしている。しかし、ここからバルザックの作品のリアリズム的方法の偉大さを結論することは、まだ早すぎるように思う。