玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(11)

2020年08月21日 | 読書ノート

 今、私は宮下志朗という人との『読書の首都パリ』という本を読んでいて、その第Ⅰ章に「発明家の苦悩――バルザックとブッククラブ」という項があり、それを読んでバルザックがなぜ『幻滅』において、あれほど印刷業界と出版業界のことを生き生きと書くことができたのか、その理由を知ることができた。

 宮下はバルザックについて「かつて印刷・出版の世界でベンチャービジネスに乗り出して、手痛い失敗をこうむった借金男」と書いている。バルザックが莫大な借金に追いまくられて、小説を量産していたことは知っていたが、その借金の原因が印刷・出版にかかわるビジネスであったことは知らなかった。

 バルザックの生涯についての本の一冊でも読んでいれば、そんなことは常識的に分かることなのだが、私はそもそも作家の伝記のたぐいを好んで読む習慣を持たない。文学作品がその作家の伝記的事実に還元されるなどという考えを認めないからである。ただし、たまたま宮下が書いているような事実を知ることがまったく無益というわけでもない。『幻滅』がいかにバルザックの現実の体験に負っているかということが分かるからである。

 もう一つ、宮下の本で知ったことは、エミール・ゾラのジャーナリズムへの肯定的な姿勢についてである。ゾラはジャーナリズムの進展が、文学を王侯貴族によるパトロナージュの世界から解放し、作家を初めて自由にしたと考えた。だからゾラは「金銭が作家を解放した。金銭が現代文学を創造した」と書いたのである。ゾラは文学の市場原理というものを肯定的に捉えたのである。

 一方バルザックは『幻滅』を読めば分かるように、ジャーナリズムを「思想の売淫」を行う賤業と見なしていたし、書店業界もまたその一翼を担うものと考えていた。当時の書籍商は作家と読者の中間にあって、作家の著作権をおびやかし、その生活を危うくする存在であると、バルザックは実体験からそう理解していた。

 そこには当時の「読書クラブ」という貸本システムがあって、出版社はリスクを恐れて少部数の出版しか行わず、読者は金を払って本を読むことをせず、書籍商が流通させる貸本をもっぱらただ同然で読んでいたのである。バルザックはそこで、作家と読者を直接繋ぐ「ブッククラブ」のようなシステムを考案し、提起したが、それが実現することはなかった。

 以上、宮下の本から読み取れるのは、文学の流通ということに関して、エミール・ゾラよりもバルザックの方が本質的な分析力を持っていたということである。今日の文学とジャーナリズムの関係を思い起こせば、ジャーナリズムが文学を解放したなどということは、間違っても言うことはできないし、それ故にゾラの分析力は今日の文学界の問題に届いていない。

 ゾラよりも早い時代に属したにも拘わらず、バルザックはジャーナリズムの世界や書店業界への透徹した視点によって、今日の問題にその分析力を届かせているのである。たとえば当時の貸本システムを今日の公立図書館という貸本システムと比較してみるならば、それが文学者の著作権を侵害し、その生活を脅かし、文学の質を損ねる原因となっていることは明らかであるからだ。

 ジャーナリズムに関しては、これはもう言うまでもないことであり、文壇という生産者団体が消滅し、ジャーナリズムという流通を担う業界が主導権を握っている今日、状況は悪化する一方であり、そのあり方はバルザックが生きた時代と大きな違いはないのである。

 そこにゾラとバルザックの作家としての力量の違いを認めることができることも言うまでもない。19世紀的リアリズムという土俵で考えたときにも、二人の力量の違いは一目瞭然であって、バルザックの時代認識こそが、今日までその射程を伸ばすことができていることは明白なのである。

 

宮下志朗『読書の首都パリ』(1998、みすず書房)