玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(8)

2020年08月10日 | 読書ノート

 さて、いよいよヴォ―トランという人物について語らなければならない。ヴォートランの人物造形は私には、マチューリンの『放浪者メルモス』の主人公メルモスにその多くをよっているとしか思えない。その証拠としてバルザックの青年期の作品『百歳の人』Le Centenaire ou les deux Béringheldを挙げることができる。

 この若書きの小説は1822年の刊行で、当時マチューリンの『放浪者メルモス』が翻訳されて、フランスで人気を博していたという。前にも書いたように『百歳の人』はあまり出来のよい小説ではなく、明らかに『放浪者メルモス』の二番煎じにすぎない作品だが、若きバルザックがこのメルモスという人物に深い共感を寄せていたことは、充分読み取ることができる。

「二人のベランゲルト」というのは、この小説の二人の主人公と言ってもよいもので、これまで何百年生きてきたか分からない「百歳の人」とその末裔であるベランゲルト将軍のことを言っている。「百歳の人」はベランゲルト将軍に生き写しで、そのことはゴシック小説における分身のテーマをバルザックが意識していたことを窺わせる。『放浪者メルモス』の方には分身のテーマは含まれないが、若きバルザックがいかにゴシック小説の影響を受けていたかを理解するには十分である。

 あるいは分身のテーマと言うよりは血統のテーマ、ゴシック小説の基本中の基本である呪われた血統のテーマと見なした方がいいのかもしれない。これもまた『放浪者メルモス』に典型的にみられる「さまよえるユダヤ人」のような、呪われた放浪者に連なる者の恐怖の系譜である。かくも若きバルザックは、ゴシック小説に入れ込んでいたのである。

 マチューリンの造形した「放浪者メルモス」は悪魔との契約によって不死を約束され、放浪を繰り返す(それどころかメルモスは瞬時に世界中のどこにでも出没できるのである)が、そのような不幸な運命を誰かに肩代わりさせたいと思っている。メルモスは放浪の中で、不幸な運命を背負ったさまざまな人物に対し、悪魔との契約の肩代わりを要求するが、ことごとく拒絶されてしまう。

 バルザックの『百歳の人』には、このような悪魔との契約というテーマはないが、その代わりに自分が生き延びることの代償として、相手の寿命を要求するという吸血鬼的なテーマが見受けられる。最後に犠牲となるマリアニーヌは、死への願望を口にしたが故に、自らの寿命を「百歳の人」に差し出すことになる。

 しかし、この「百歳の人」は、世界に対して不幸だけをもたらす存在というわけではない。彼は自分の末裔であるベランゲルト将軍が、ナポレオンのエジプト遠征に参加する時に、彼の兵士たちをペストから恢復させ、将軍の危機を救いもするのである。だから「百歳の人」は災禍の人であると同時に救済の人でもあり、悪の人であると同時に善の人でもある。

 このような二重性はバルザックの発明によるものではない。マチューリンのメルモスこそ、こうした二重性の元祖だと言ってもよい。ゴシック小説には多くの悪人が登場するが、メルモスのような複雑な二重性を負った人物は、マチューリンの登場を待たなければ可能とはならなかった。

 メルモスは悪魔との契約を他者に押しつけたい。そのためには不幸に陥っている人物を救済の対象として選択しなければいけない。自らの不幸を回避するためには悪魔と契約してもよいという人物を選び出さなくてはならない。『放浪者メルモス』はそのような人物とメルモスとの相克の物語である。

 メルモスは犠牲者を不幸から救い出すことによって、悪魔との契約を逃れるのであるから、その限りでは災厄からの救済者であり、善の人である。しかし悪魔との契約を押しつけることで犠牲者を破滅へと追いやる以上、メルモスは災厄の人であり、悪の人でもあるのである。このような二重性をマチューリンはゴシック小説において、初めて達成したのだった。