玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(12)

2020年08月23日 | 読書ノート

 話が19世紀的リアリズムのことに戻ってしまったが、以上のような議論は19世紀的リアリズムの今日における有効性の領域を確定するものだと私は思う。フランスでは20世紀半ばにヌーボー・ロマンが勃興し、バルザックに代表される19世紀的リアリズムは全否定され、バルザックが諸悪の根元であったかのように言われたこともあったが、ヌーボー・ロマンは世界文学に行き詰まりと停滞をもたらしただけで、すぐに消え去ってしまった。

 20世紀半ば過ぎの所謂ラテン・アメリカ文学のブームは、19世紀的リアリズムの復権と、物語の再興をもたらした。魔術的リアリズムという言葉はもともと矛盾を孕んでいるが、リアリズムが否定されているわけではない。ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は物語の再興という意味で、ヌーボー・ロマン的なものへのアンチテーゼであったが、マルケスは必ずしも19世紀的リアリズムを復権させたわけではない。

 それを前面に押し出してブームを先導した一人は、フローベールを小説の師と仰ぐバルガス=リョサであった。リョサの作品はその初期には時間軸を破壊=再構成した実験的な方法に貫かれていたが、その後は19世紀的リアリズムに忠実な作品を書いている。そもそも時間軸を整序さえすれば、初期の作品だってリアリズム小説として読むことも可能だったのだ。

 バルザックは歴史上最初の職業作家の一人であり、小説におけるリアリズムの創始者であったかもしれない。しかしバルザックはリアリズム小説ばかりを書いたわけではない。私が取り上げた『百歳の人』はともかくとしても、『あら皮』などは超自然的な現象を扱っているし、『セラフィタ』などは完全な幻想小説であり、その内容はどこまでもロマンティックなものであった。

 フローベールを至上の作家とするリョサは、「現代の小説は凡庸で特性のない人物を主人公にするが、ロマン主義の小説は強烈な個性をもった傑出した人物を主人公にする」という意味のことを、そのフローベール論『果てしなき饗宴』で言っていて、その本でフローベールを現代小説の祖と見なし、バルザックをロマン主義の作家として切り捨てる。

 しかし話はそんなに簡単ではない。フローベールはリアリズムとロマン主義の間で大きく引き裂かれた作家であり、そのリアリズム小説においてはボヴァリー夫人やフレデリックのような凡庸で矮小な人物を主人公としたが、ロマン主義小説においては聖アントニウスやマトーのような人知を超えるほどに偉大で巨大な人物を主人公にした。

 バルザックの場合には、凡庸で矮小な人物というのはどこにも見当たらず、そこがフローベールとは違っていて、リョサが評価しない原因となっている。しかしヴォ―トランのような複雑かつ巨大な人物を創造したことについて評価することはまったくできないのだろうか。

 そこが私とリョサの認識の違いであって、私は19世紀的リアリズムのある領域と同時に、ロマン主義的な人物造形の一部を積極的に評価したいのである。フローベールが描いた聖アントニウスやマトーを前近代的な妄想のようなものとせざるを得ないのが、リョサの立場だが、それでは『ボヴァリー夫人』と『感情教育』しか認められないではないか。私はそのような不毛な議論に与することができない。

 バルザックがヴォートランの原型としたマチューリンのメルモスは、その後いくつかの作品の源泉となっている。小説ではないが、ボードレールの「われとわが身を罰するもの」L´HÉAUTONTIMOROUMÉNOSはメルモスのサディスムを、他罰性と自罰性の同時性へと読み替えた大傑作である。これも小説ではないがイジドール・デュカスの『マルドロールの歌』の主人公は、明らかにメルモスの他罰性をサディスムの方向へと極端化させた存在である。

 デュカスの主人公はパロディと紙一重の存在であるかもしれないが、『マルドロールの歌』が20世紀の文学に与えた影響は絶大なものがあり、ロマン主義の妄想が咲かせたあだ花とは言い切れないものがある。バルザックのヴォートランは神なき時代のメルモス、あるいは悪魔なき時代のメルモスとも言えるのであって、私の言う〝世俗化されたメルモス〟として、単にロマンティックな創造物ではないのである。

 

このテーマはもっとじっくりと探求しなければならないものと思うが、今は時間がない。これから「北方文学」第82号のための準備に入る。ヘンリー・ジェイムズ論の続きを書かなければならないので、おそらくしばらくはブログを書けないだろうと思う。10月一杯で終える予定なのでよろしくどうぞ。

(この項おわり)

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