以上のカルロス・エレーラの言葉を一般論として読み、「世間の人間は孤独に耐えきれずに、自らの運命の協力者を欲するが、自分はそうではない」という矜持の言として、それを捉えることはできない。カルロスは続いてリュシアンに、次のように内心を吐露してみせるのだからである。
「わしは孤独の人間。ただ一人生きている。僧服をきてはいるが、坊主の心はもたん。わしは献身ということが好きで、こいつがわしの欠点でな。この献身でもってわしは生きている。」
だがカルロスは、自分もまた一般論に該当する「孤独に耐えきれずに、自分の運命の協力者を欲する」者だと言っているのである。さらにその協力者のためなら、どのような献身も厭わないとさえ言う。この稀代の悪人には似合わぬ「献身」の精神こそ、ヴォートランの悪人としての真の二重性を示すものである。
このような二重性をマチューリンの放浪者メルモスも体現していた。窮地に陥った人間を救おうとする時、メルモスはどこまでも献身的ではなかったであろうか。『放浪者メルモス』に登場するすべてのケースにおいて、メルモスはそのように行動するが、特に絶海の孤島に取り残されたイジドールへの愛は、無償のそれであるかのようにさえ見えてしまう。
しかし、メルモスの本来の目的は窮地に陥った犠牲者を、悪魔との契約によって放浪を運命づけられた自分自身と交換することにあるので、献身的態度は上辺だけのことにすぎないと思われるかもしれない。しかし、悪魔との契約ということを喩として捉えるならば、「孤独に耐えきれずに、自らの運命の協力者を欲する」ということに還元されるのではないか。
まさに放浪者メルモスという存在が普遍性をもつのは、そこのところなのである。物語としては悪魔との契約の肩代わりを求めて放浪を繰り返すのであるが、それを言い換えれば、孤独を宿命づけられた近代的主体が、運命をともにする者を求める精神的運動ということになる。
『放浪者メルモス』は超自然的な事象を扱う点においてゴシックであり、『百歳の人』もまたそうであったが、バルザックはメルモスから超自然的要素を取り除き、リアリスティックな人物としてヴォートランを創造したのだと言える。それが私の言う〝世俗化されたメルモス〟ということの意味である。
ヴォートランを動かしている思想や理念については、こうして理解することができる。ではリュシアンに対する具体的な関係の取り方はどうなのだろうか。カルロス・エレーラは先の台詞に続いて、次のようにリュシアンに向かって言う。まるで愛の告白のように。
「わしは自分のつくったものを愛したい。そのものをわしの使えるように細工したり鍛えたい。父親がわが子をかわいがるように愛せるように。わしはおまえさんの二輪馬車に乗って歩こう。おまえさんが女たちから大切にされるのをよろこぼう。そして、わしはこういうのさ――この美青年はわしだよ!」
ヴォートランのリュシアンに対する奉仕の意図について、リュシアンを保護し、鍛え、出世させることによって、黒幕として裏から社会を支配するためといわれることもあるが、そんなことは『幻滅』にも『浮かれ女盛衰記』にも、どこにも書いてない(『ゴリオ爺さん』にはそう書いてあったかもしれないが、確かめていない。たとえそうであったにしても『ゴリオ爺さん』に登場するのはまだ未成熟なヴォートランである)。
ヴォートランのリュシアンへの庇護は、わが子をかわいがる父親のような気持ちによっているのであって、『幻滅』と『浮かれ女盛衰記』においてはまさに、そのような現れ方をする。あくまでもそれは無償の奉仕であり、打算があるとすればそこで〝私が同類を得る〟ことにおいてのみである。