玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(6)

2022年03月08日 | 読書ノート

 さらに付け加えるならば、ホフマンの幻想表現も、クビーンの幻想表現も極めて絵画的で、それが鮮明なイメージを結ばせるという点で共通している。グリューネヴァルトの《聖アントニウスの誘惑》では、鳥に棍棒を持った人間の腕を接合したり、ナマズのような顔の動物に人間の体を合体させたりしているのだが、イメージは現実の存在物とまったく同じレベルで現前している。絵画にはそのようなことが可能なのである。
 ホフマンの幻想表現もまた、グリューネヴァルトの絵画と同じように、人間の顔と鴉の体の接合、蟻と人間の脚の接合、あるいは毛虫と羽との接合が直接に絵画的イメージを喚起させる。言葉もまた現実の存在物と同じように、想像物を現前させることができるのだ。ホフマンの幻想描写が、他の作家のそれを大きく凌駕しているのはそのためだと言うことができる。
 あるいはまた、そうした幻想的なもののイメージを現前させることができるのは、言葉と絵画だけだと言うことも可能だろう。それは幻想というものが主に視覚的なイメージに支えられることが多いことから来ていると思われる。幻聴のようなものももちろんあるが、それは絵画によって表現できないし、言語によっても表現することが難しいものである。
 そんな意味でクビーンのペテラの顔の百面相もまた絵画的で、現実の存在物と同じように現前するイメージを獲得している。そして、クビーンの描写の中に実は、幻想というものが生まれる場所が示されているのである。
 先日の引用をもう一度読めば分かるのだが、パテラの顔の変貌は、最初は比喩としての表現に始まって、徐々に比喩的な要素をなくしていって、最後は比喩が比喩対象にすり替わるという過程を経ている。それはパテラの顔が最初は人間の相貌であったのに、徐々に人間の顔の特徴を失って、動物化していく過程そのものである。
〝ような〟という直喩の指標が減じていく流れがそこにはあって、それはつまり直喩が隠喩に転換していく過程なのである。「カメレオンのように」とあるのは、人間の顔がカメレオンに似ていくということではなくて、カメレオンがその体皮を千変万化させるように、人間の顔が変わっていくということである。
 さらに「七面鳥のような贅肉」というのも、パテラの顔が七面鳥の顔と化すのではなく、顔に七面鳥の肉垂のような爛れた肉が付くというだけのことである。そして「次に現れたのは動物たちの顔だった」という一文以降、直喩は指標を欠落させて隠喩に、いや隠喩ですらなく比喩対象そのものを失っていくのである。もう一度最後の所を引用する。

「一頭のライオンの顔貌、それがやがてジャッカルのようにとがって狡猾な顔つきになり――それが鼻孔をふくらませた野生の雄馬に変り――鳥類になったかと思うと――次には蛇のようなものに変った。」

「蛇のようなもの」という表現にまだ直喩の指標が残っているではないか、といわれるかも知れないがそうではない。ここは「蛇」でもかまわないが、「蛇のようなもの」とすることで、蛇に似ているがそうではない得体の知れないものを示し、幻想性を高めているのである。すでに人間の相貌は失われている。
 以上がクビーンの一節から読み取ることができる、幻想というものが生み出されていく言語的な構造である。比喩表現がその対象を駆逐して、比喩そのものが対象に成り代わるのである。直喩が隠喩と化していく過程、あるいは直喩が隠喩を経て、比喩表現そのものを失っていく過程こそが幻想が生まれ出る場所なのだと言うことができる。