玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(2)

2022年03月04日 | 読書ノート

「第2章 パテラの創造」では、夢の国の相対的なイメージと生活の諸相が描かれる。まず、中部ヨーロッパとの決定的な違いについては、次のように説明されている。

「全体として大ざっぱに言えば、ここでの状況は中部ヨーロッパのそれと似たりよったりだったが、しかしそこにはまた非常な違いもあったのだ! たしかに、町が一つあり、いくつかの村と、大きな領土と、川と湖が一つづつ、あった。しかしそのうえにひろがっている大空は、永遠にどんよりと曇っていた。けっして太陽の輝くことはなく、けっして月や星が夜、眼に見えることもなかった。永遠に変ることなく、雲が深く地上にまでたれこめていた。それが嵐のときに密雲となることはあっても、青い天空は私たちすべてのものの眼に閉ざされていた。」

 昼に太陽が輝きを見せることはなく、夜に月や星が光を放つこともない世界、それは気象学的に「広大な沼地や森林」によって、いつでも霧が発生するためだとされている。これがパルレの基本的なイメージであって、ここでもすでにディストピア的な世界が姿を見せている。
 しかし、ユートピアがディストピアに変じていくのはまだ先の話であって、「私」は当初、この夢の国に親和性を感じていた。それは金銭的な慣習にも関わることでもあった。

「あるとき数百グルデンのお金を懐にしているかと思えば、次にはまた無一文になっていた。結局は、お金がなくても結構うまくやってゆけるのだった。ただ誰でもが、まるでなにかを渡そうとしている、というようなふりをしなければならなかった。時と場合によっては、どんなに余分な金をわたしても釣銭を受けとらない、といったような危険をおかすことさえもできた。しかし結果はいつでも同じことなのだった。
 ここでは空想がそのまま現実だった。そのさい不思議なのはただ、どうしてそのような空想が数人の頭に同時に浮かんでくるのか、ということだった。人びとはおたがいに、話をしながら、いやおうなしに暗示にかかっていったのである。」

「お金がなくても結構うまくやっていける」世界は、それだけでもユートピア的な要素を含んでいるが、この作品が書かれた1909年ということを考えれば、それが社会主義や共産主義の理想的な側面を示していることは明白だろう。そんな意味で「私」の前に徐々に姿を現してくるペルレはユートピア的な要素で「私」を魅了していく。
「私」はまだペルレに期待を抱いていて、友人に「ここへ来て暮らすように」という手紙を書いているが、そこでは町の中央広場に立つ灰色の時計塔の魔力のせいだということが、暗示されている。そしてこの魔力を持った時計塔がこの先重要な存在となっていくのである。
「私」は雑誌の素描画家としての仕事に励みながら、「友人であるパテラを訪問しようという無駄な試み」にのめり込んでいく。それが「無駄な試み」であるのは、「私」がパテラに会おうとすると、必ず邪魔が入ってくるからである。ここからこの小説はフランツ・カフカ的な世界に突入していく。

「それにはあいにく、ありとあらゆる邪魔がはいりこんできた。一度は、首領はあまりにもたくさん仕事をかかえこんでいるので、誰にも謁見は許されない、ということだった。別の時には、彼は旅に出ていた。まるでいまいましい妖怪が邪魔だてをしてでもいるかのようだった。そのとき私は、アルヒーフへいけば拝謁許可証を出してもらえる、ということを聞きこんだ。」