玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルフレート・クビーン『裏面』(13)

2022年03月31日 | 読書ノート

 以上のようにパテラは、神の似姿として造形されているが、それは遍在すると言いながら不在であり、約束を守ろうとせず、疲労に打ちひしがれた神としてなのである。ここには極めて現代的な神のイメージが示されているし、それはヨーロッパに関しての文明論的な探究の結果という意味さえ担っているように見える。だからパテラもまた多義的な存在であり、それを単に神の寓意として捉えることはできないのである。
 ところで、ツヴェタン・トドロフはその『幻想文学論序説』の中で、幻想文学と寓意との関係について、詳しく分析を行っている。寓意とはトドロフによれば、次のようなものである。

「第一に、寓意は同一の語群に少なくとも二つの意味が存在することを前提とする。ただし、第一の意味は姿を消すべきだとされることもあり、二つの意味が併存していなければならぬとされることもある。第二に、この二重の意味は、作品内に明瞭な方法で示されるのであって、特定の読者の解釈(恣意的であるとないとを問わず)に依存するものではない。」

 つまり寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)があって、それらが二重の意味を形成しながらも、寓意するもの(言葉)はすぐに姿を消してしまい、寓意されるもの(言葉)の支配権が確立される場合もあれば、二重の意味がさまざまなバランスの中で併存し続ける場合もある。また寓意の意味は読者の解釈にゆだねられるのではなく、作者によって明瞭に示されていなければならないということである。
 寓意するもの(言葉)が消滅してしまうような作品には「そこにはもう幻想のための場などはありはしない」(トドロフ)のであり、いかに超自然的な現象が描かれていようとも、それを幻想文学と呼ぶことはできないのである。一方二重の意味が保持され、寓意するもの(言葉)が消えてしまわないような作品の場合、寓意の構造はより複雑で精妙なものとなる。トドロフはそのような例として、バルザックの『あら皮』を挙げている。
 私はトドロフの定義にもう一つ、寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)との対応の一義性と多義性ということを付け加えてもいいのではないかと思う。寓意するものとされるものとの対応が一義的な場合には、そこに幻想性が保持される余地はまったくないが、その対応が多義的である場合には、そこに幻想性が保持される余地が残される。
 しかし、寓意の意味の解釈が読者にゆだねられることなく、作者によって明示されることが寓意の本質だとすれば、寓意するものとされるものとの対応が一義的であれ、多義的であれ、幻想性がいつまでも保持されることはないであろう。トドロフはバルザックの『あら皮』についても、「この作品の幻想は、寓意、それも間接的に指示された寓意の存在によって、殺されているのである」と書いている。
 クビーンの『裏面』は、一面では寓意的な物語とみなされることもあるかも知れないが、まず第一に、寓意するもの(言葉)と寓意されるもの(言葉)との対応が一義的であることはない。『裏面』でのそれは極度に多義的であって、寓意されるもの(言葉)の一元的な支配は許されていないのである。