ピーター・バナードという人はこの「つた つた つた」を日本語で書いていると思われるが、ほぼ完璧な日本語で、まずそのことに驚かされる。編集部の手が入っているとは思うが、それにしても素晴らしい。時たま日本語になっていない部分も散見されるにしても、28歳でここまで自在に日本語を扱うことができるとなれば、末恐ろしい。
そればかりでなく、この評論で折口と比較されている日夏耿之介や、後で出てくる泉鏡花などに対する読解についても、本当にアメリカ人なのか? と思わせるほどであり、その読書範囲についても驚かされる。しかし、私など読んだこともない平井呈一の「真夜中の檻」や、幸田露伴の「観画談」などに触れているところを見ると、この人が日本の幻想文学に対するマニアックな嗜好をもっていることが見えてくる。
でも、こういう人がいてもいいだろう。今回ジェフリーさんによって日本の幻想文学の中で五本の指に入るだろう『死者の書』が、英語圏の読者に初めて紹介されたわけだが、日本幻想文学の頂点とも言うべき泉鏡花の作品が、まだ代表作を除いてはほとんど海外に紹介されていないことを残念に思うからである。
さて、本題に入ろう。バナードは『死者の書』のジャンルとしての位置づけに、私と同じように大きな興味を示している。ジェフリーさんは『死者の書』を、黒岩涙香、泉鏡花、村山槐多、江戸川乱歩につながる「ジャパニーズ・ゴシック」というジャンルに位置づけているのだが、バナードはこれに疑問を呈している。
本家のゴシック・ロマンスがデイヴィッド・パンターの『恐怖の文学』によれば、「〝過去〟との特殊な関係による美的態度」であるとすれば、「ジャパニーズ・ゴシック」が「時間的要素を軸としない」限りにおいて、「物語の深層に「古代」という時間的在り方を追求する」『死者の書』は、「ある程度しかそれに当て嵌まらない」と、バナードは言っている。
確かに泉鏡花はひたすら〝現在〟を書き続けた作家であり、過去を舞台とした作品はほとんどない。白山信仰などの民間信仰が過去のものとして描かれるとしても、それは現在にまでつながっているものと捉えられている。
一方、折口の『死者の書』は現在からは隔絶された過去=古代の世界を舞台としている。本家のゴシック・ロマンスが中世への憧れによって特徴づけられるとしたら、折口の『死者の書』は「ジャパニーズ・ゴシック」よりも本来のゴシック・ロマンスに近いのかも知れない。
以上のようなことをバナードは書いているのだが、いかにも歯切れが悪い。「ジャパニーズ・ゴシック」や「ゴシック・ロマンス」あるいは「ゴシック」ということそのものの定義がうまくなされていないからである。
「ゴシック」の定義についてバナードは、デイヴィッド・パンターの『恐怖の文学』での定義を使っているが、パンターの〝恐怖〟を軸としたゴシックの定義は、まったく表面的なものでしかない。バナードが挙げている部分ではないが、以下のようなゴシックの定義がそれである。ちなみに、バナードは日本語版の『恐怖の文学』を参考文献に挙げていて、研究書まで日本語で読んでいる徹底ぶりを見せている。
「なかでも重要なものは恐怖の念を呼び起こすものの描写に重点をおくこと、古めかしい設定を一様に強調していること、超自然の使用が目立つこと、かなり型にはまった登場人物が出てくること、文学的サスペンスの技巧を効果的な使用によって完成させようと試みること」
「ゴシック」をこのように定義すると、それは「恐怖小説」の定義とまったく同じものになってしまう。パンターの定義は恐怖小説のそれにすぎず、「ゴシック」の重要な要素をまるで無視するものにしかなっていない。
恐怖(あるいは恐怖horrorと崇敬reverence)を軸として、『死者の書』のジャンルを確定しようとしても、それは「恐怖小説」に近づくだけで、決して「ゴシック」に近づくことはない。
「つた つた つた」の場面は藤原南家郎女が、恐怖と期待のない交ぜになった感情をもって、天若御子の跫音を待つところであるが、それを「恐怖小説」の根拠とすることはできても、「ゴシック」の根拠とすることはできない。
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