「三田文學」の夏季号は「アメリカの光と影」と題した特集を組んでいて、巻頭にジェフリー・アングルスさんの「内陸に」という詩を配している。私はそれを読むために「三田文學」を購入したのであったが、私が雑誌を注文したことをジェフリーさんにメールで伝えると、同じ号に、あるアメリカ人がジェフリーさんの『死者の書』の翻訳について書いていて、それは原作である折口信夫の『死者の書』がゴシック小説であるか否かについて、長々と論じたものだという。
実は私がジェフリーさんの『死者の書』の翻訳の序文について、この「ゴシック論」で紹介したときに、私は『死者の書』はゴシック小説ではないと断定したのに対して、ジェフリーさんは異論をもっていたらしい。
その件で後日ジェフリーさんから、英語では大文字でGothicと書くときは狭義のゴシック小説を指し、小文字でgothicと書くときは幻想小説全般を指すので、そこに認識の違いがあるのではないかというメールをいただいた。
日本でゴシック小説と言うときには、まずは18世紀のイギリスに始まるゴシック・ロマンスと、その伝統の流れの中にある作品を指しているし、幻想小説全般をゴシック小説と呼ぶことはないからである。
確かにジェフリーさんが言うように、翻訳版『死者の書』の裏表紙には小文字でgothic romanceと書かれているのだ。とすれば、私の疑問も、ピーター・バナードの疑問も、たいした意味を持たないことになるのかも知れない。
だいたい折口信夫の『死者の書』がゴシック小説かどうかなどという問題は、一般的にはどうでもいい問題かも知れないが、三年間にわたって「ゴシック論」を書いてきた私にとってはそうではない。ゴシック小説というジャンルを定義することは、ゴシック小説に対する視座を確定することであり、大きくその読み方に関わってくる問題だからである。
そのことはツヴェタン・トドロフが『幻想文学論序説』で、幻想文学というものの定義に大きく時間を費やしていることと共通する背景をもっている。トドロフは幻想文学の範疇から、寓話とお伽噺を排除する。そうしなければ幻想文学というものの、近代における位置を確定できないからだ。
「三田文學」にはジェフリーさんが言うとおり、ピーター・バナードという人の「つた つた つた」という評論が掲載されていたので、早速読んだのであった。「つた つた つた」というのは、折口の『死者の書』に出てくる特徴的なオノマトペの一つで、これは主人公藤原南家郎女が當麻の地に蟄居する中で、天若御子(あめわかみこ)の跫音を恐怖と期待とをもって聴く場面の主調音となっている。
ところでピーター・バナードという人は1989年マサチューセッツ州生まれだというからまだ28歳。ハーバード大学の院生である。そんな人が「つた つた つた」などというおかしなタイトルを付けるはずもなく、当然それにはサブタイトルがある。いわく「折口信夫と日夏耿之介との越境的ゴシシズムについて」。
バナードの文章について考える前に、「つた つた つた」をジェフリーさんがどう訳しているか見ておこう。それはTssuta tssuta tssuta。オノマトペはすべてイタリックで表記されているが、ここは日本語の音をそのまま使っている。
冒頭の有名な「した した した」については、A barely audible sound――shhh――followed by something that sounded like punctuation――ta. Shhta shhta shhtaと、オノマトペというものをほとんどもたない英語圏の読者にも分かるように、解説的な文を付け加えているが、ここではそうではない。
また11章の鶯の鳴き声の見事なオノマトペ「ほほき ほほきい ほほほきい――。」はどうなっているかというと、こうだ。Hohoki,hohokiii,hohohokiiiiii...。他にも17章の若人たちが足踏みをして邪気を払うときの掛け声も、「あっし あっし」がそのままasshi,asshiとなっている。
オノマトペを翻訳することは不可能なのだ。音に価値をもつオノマトペがその音を変えられてしまえば、翻訳の意味がない。外国人にとっては分かりづらいかも知れないが、音として感受してもらうしかないのだし、折口のオノマトペの独自性を聞き分けることは諦めてもらうしかない。
で、ピーター・バナードが何で折口のオノオマトペをタイトルにしたかは、後ほど理解されることになる。
「三田文學」2017年夏季号(三田文学会)
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