ここまで書いてきて、昨年9月に出たばかりの、大畠一芳著『ヘンリー・ジェイムズとその時代』という本を読むことになった。序章として書き下ろしの「アイルランドから新大陸アメリカへ――ジェイムズ家の三世代」という論考が置かれている。これはアイルランドの農民に生まれたウィリアム・ジェイムズが、アメリカに移住して成功を収め、その子ヘンリー・ジェイムズと、そのまた子供たちウィリアム・ジェイムズとヘンリー・ジェイムズが生涯働くことなく、好きなことに専念できる環境をつくったという物語である。
ウィリアムとヘンリーという名前が何度も出てきて紛らわしいが、我がヘンリー・ジェイムズからすれば、アメリカで成功したのは祖父ウィリアム・ジェイムズであり、その子ヘンリーは彼の父親である。父ヘンリーは祖父の厳格なプロテスタンティズムに反旗を翻して、父親の元を離れ、スウェデンボルグの神秘思想に憧れ、その子ウィリアム(心理学者)と我がヘンリーに、ヨーロッパ中を訪ね歩く中で自由な教育を施したというわけである。
父ヘンリーに関しては、二人の子供に与えた手紙の一節が、チリの作家ホセ・ドノソの最高傑作『夜のみだらな鳥』のエピグラフに使われていることから、私にとって非常に興味のある人物であり、彼のことについて貴重な情報を与えてもらった。父ヘンリーの祖父に対する宗教的・思想的対立が、小説家ヘンリーに大きな影響を及ぼしたことがよく理解できる。アメリカの厳格なピューリタニズム(ある意味ではあまりにも実利的な)に対する反抗的精神が、父から子ヘンリーへと受け継がれていったであろうことも納得できる。大畠の著書は示唆に富んだ良書である。
さて、第2章が「『ロデリック・ハドソン』論」になっていて、大畠は最後に「ローランドの意識のドラマ」をテーマに論じている。私はそのことをいささかおざなりにしてきたように思うので、ここで少し補足しておく必要を感じている。傍観者として振る舞うローランドについては、ジェイムズ自身がニューヨーク版序文において、「関心の中心はローランド・マレットの意識であり、ドラマはまさにその意識のドラマなのである」と書いていることを、私は知らなかった。もしかすると主人公はロデリックではなく、ローランド・マレットかも知れないのである。
そうであれば、クリスチーナがあれほど中途半端な描き方に終わっていること、そしてロデリックが決して読者の共感を呼ぶ人物として描かれていないことに納得がいくのである。ロデリックはプライドのみ高く、自堕落で、自立もできない芸術家として描かれていて、読者はローランドの視点を通して、ロデリックに歯痒い思いをするのだし、メアリーへのローランドの恋情に対し読者は、必ずや婚約者ロデリックではなく、ローランドの味方に廻るだろうからである。ローランドの指弾によってロデリックが自殺に追い込まれるのだとしても、読者は決してローランドを責める気持ちにはならないだろう。
大畠はそのあたりの事情を、ローランドの積極的な意志として読み取り、ロデリックの自殺をローランドの「未必の故意」による殺人だとまで言っているが、私はそこまで言うつもりはない。しかし、傍観者と見えたローランド・マレットが、必ずしもその立場に留まっているわけではないという指摘は重要である。ローランドはメアリーへの恋情を通して、積極的に物語に介入するのだからである。
しかし、ローランドの最後に放つ「いえ、ぼくほどじっとして辛抱強い者はいませんよ」という言葉が、メアリーが彼の恋心に応えてくれることへの期待であるにしても、永遠に〝辛抱する者〟こそが傍観者の名前に相応しいものであるという事実は動かない。この点でローランドが『使者たち』のランヴァート・ストレザーの原型だとしても、彼のようにアメリカにもヨーロッパにも属さない者として再出発しようという決意を語ることがない以上、彼に対して〝傍観者〟という名が与えられることは避けられないことなのである。
また、視点人物の意識のドラマがジェイムズの関心の中心になかったことなど一度もないのであり、ローランドが例外的な人物であるわけではない。ジェイムズの心理小説にとって最も大事な方法が〝視点〟の方法である以上、それを体現する人物が傍観者に見えてしまうこともまた、避けられない事実なのである。
大畠一芳『ヘンリー・ジェイムズとその時代――アイルランド、アメリカ、そしてイギリスへ』(2021、悠書館)
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