玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

北方文学84号、400頁で発刊

2022年01月01日 | 玄文社

「北方文学」第84号が発刊になりましたので、紹介させていただきます。今号発行を前に新村苑子が高齢のため同人を去り、長谷川潤治が亡くなり、着実に高齢化による同人減少が続いているのに、今号はなんと400頁の超大冊となりました。これはやはり、一人一人の同人の創作意欲の高まりによるものと考えるしかないでしょう。特に今号は長めの小説を4本揃え、評論・研究の充実と相俟って、ページ数が激増したというわけです。

 巻頭は館路子の詩「虹への軽いオブセッション」で、詩を書く同人が減ってきていることもあって、ここが館の指定席になりつつあります。最近、文学作品をモチーフに書くことが多くなっていた館ですが、今回は〝虹〟がモチーフです。禁忌としての虹を追い求める〝あなた〟とは何か? なにかこれまで捨て去ってきたものへの慚愧の思いさえ感じさせます。オブセッションは〝軽い〟ものでなどないようです。

 次は大橋土百の俳句です。2020年から2021年までの「森の思索ノート」によるもので、さまざまな感慨が俳句にまとめられています。時事的なものもあれば、日常雑感的なもの、自然を通して人間の生き方を問うものなど、79句が収められています。

 続いて批評が6編。映画批評から日本文学、短歌俳句論からゴシック論まで多彩です。最初は岡島航の「かぎりなく死に近づく」。直接的にはフランスホラー映画、パスカル・ロジェ監督の「マーターズ」についての論ですが、中国の残酷刑「凌遅刑」やバタイユ、メキシコの作家サルバドール・エリソンドの『ファラベウフ あるいは瞬間の記録』などへの言及があり、映画論というよりは、人はなぜ残酷なものに惹かれるかという問いであり、殉教というものに対する思想的な探究でもあります。

 次は同じく映画論を並べてみました。鎌田陵人の「チェンソーを持つ悪魔」がそれです。まだ比較的若い人の批評を頭に持ってくることで、新しいジャンルへの批評的眼差しの可能性に賭けてみました。鎌田のはトビー・フーパー監督の「悪魔のいけにえ」について仔細に論じたものです。チャエンソーから〝鎖〟と〝鋸〟、つまりは接続と切断という両義的なテーマに展開していきます。

 次は坪井裕俊の芥川論「人間の中心にある利己主義の行方です。芥川龍之介の代表作「鼻」を昨今のコロナ禍と関連させて論じたものです。「鼻」の主人公内供の最後の言葉に《逆転するアイロニー》を読み取ろうとする試みです。

 次いで榎本宗俊の「民芸について」。エピグラフに吉本隆明の『最後の親鸞』から、「頂を極め、そのまま寂かに〈非知〉に向かって着地することができれば」という一節が引かれていますが、榎本の議論のすべてはこの言葉に尽きています。

 次の柴野毅実の「欲望の他者への差し戻し」は、スコットランドの作家ジェイムズ・ホッグの、ゴシックロマンスの末尾を飾る作品『義とされた罪人の手記と告白』についての論考です。分身小説は古今東西いろいろありますが、この作品は分身という他者による欲望の代行を描いたものとして先駆的なものです。宗教による度を過ぎた禁止が、分身をもたらすという論旨ですが、そのことはわが国において分身小説というものがほとんど存在しないことの、原因を解明するものともなります。

 霜田文子の「危機の時代の子供たちへ」は、これまであまり論じられたことのなかったベンヤミンの『子どものための文化史』について論じています。これはベンヤミンが1929年から1932年にかけて子供向けラジオ番組で語った原稿を集めたものでありながら、大災害や大事故などの大きな災厄ばかりを取り上げていることで知られています。そのことが子供とは何か?、教育と何か?という問いを誘発していきます。

 研究の最初は新しい同人の坂巻裕三です。坂巻はこれから自らライフワークとする永井荷風研究を展開していく予定です。最初は「荷風」という雅号が一体何から来たのかについての論考「雅号「荷風」考」です。本人が語っている、かつて入院先で惚れ込んだ看護婦の名前「お蓮」からという通説を否定し、青年時代に父と一緒の上海旅行で訪れた、西湖十景の「曲院風荷」からきているという新説を唱えるものです。そこでは父久一郎と荷風との親密な関係が問題になってきて、坂巻は二人の関係を仔細に検討していきます。

 研究の2番目は鈴木良一の「新潟県戦後50年詩史」の第18回になります。1986年から1990年までの後半を扱います。本田訓、高田一葉、五十川康平、齋藤健一、田代芙美子、常山満、館路子、樋口大介、鈴木良一らが出していた詩誌について、詳しく紹介するとともに、それらが新潟県の詩界の転換点を刻印するものであったことを示唆しています。この間に刊行された37点の詩集も紹介しています。

 ここから小説4本がスタートします。ここまでで194頁ですから、半分以上を小説作品が占めていることになります。それぞれが長いので、こんなボリュームになってしまいました。黄怒波著・徳間佳信訳の「チョモランマのトゥンカル」は連載2回目で、これで本誌掲載は終了、いずれ大長編として出版される予定です。今回の内容は中国の国家資本主義の先端的部分で、多くの詐欺的行為や裏切りが横行していることを、かなり具体的に感じさせるものです。それがどう続いていくのかはまだまださっぱり分かりませんが。

 続いて板坂剛の久しぶりの登場です。「河川敷の少女、あるいは愛の罪」は板坂独特の観念小説ですが、題材はフラメンコ舞踊の世界にあり、彼の生きている業界に近いところにあります。フラメンコ自体が「愛の罪」を体現したような舞踊と言えますが、ある日本人女性フラメンコダンサーがスペインで犯した愛の罪が、彼女の残した娘と彼女の兄ではないかと目されるスペイン人ダンサーとに憑依していく物語とでも言いますか。

 次は魚家明子の「Colors」。人の顔を覚えられない〝相貌失認〟という病気に悩まされていた〝私〟は、ある日の集団登校時に立哨をする〝ピンクさん〟と呼ばれる人に出会うことで、漸く人の顔を認識できるようになっていきます。そんな〝私〟と〝ピンクさん〟との冒険の物語であり、少女が彼を通じて成長していく過程を描いた、ある種のユートピア小説でもあります。「世界は思ったより優しい」という、彼が去った後の少女の言葉にすべてが語られているようです。

 最後は「北方文学」同人となって5作目となる、柳沢さうびの「反転銀河に擬似星座」です。1作ごとに文体を変え、モチーフを変え、刺激的な作品を発表してきた柳沢ですが、本作はこれまでで最も長く、プロットも安定し、文体も決まっていて、これが彼女の一応の完成形なのかもしれません。発達障害に苦しむ若い男女の青春小説のような見かけでありながら、奥底にはもっと深いものを感じさせます。圧倒的なスピード感を持った今までにない文体に関しては、それだけでも読者を引き付ける力を持っていると言っていいでしょう。間違いなく芥川賞にも値する傑作です。絶対必読の作品です。

 

目次を以下に掲げます。

詩 

館 路子*虹への軽いオブセッション

俳句

大橋土百*水泡の戯れ

批評

岡島 航*かぎりなく死に近づく――瞬間の解剖

鎌田陵人*チェンソーを持つ悪魔

坪井裕俊*芥川龍之介の世界XⅡ 人間の中心にある利己主義の行方 『鼻』論 ―《逆転するアイロニー》で獲得する内供の自尊心

榎本宗俊*民芸について

柴野毅実*欲望の他者への差し戻し――ジェイムズ・ホッグの分身小説について――

霜田文子*危機の時代の子供たちへ――ヴァルター・ベンヤミン『子どものための文化史』――

書評

柴野毅実*俳句への越境的アプローチ—―田原編『百代の俳句』――

研究

坂巻裕三*雅号「荷風」考

鈴木良一*新潟県戦後五十年詩史――隣人としての詩人たち〈18〉第九章―一九八六年から一九九〇年まで(後半)

小説

黄 怒波*チョモランマのトゥンカル(二)

板坂 剛*河川敷の少女、あるいは愛の罪

魚家明子*Colors

柳沢さうび*反転銀河に擬似星座

                                                    

お問い合わせはgenbun@tulip.ocn.ne.jpまで。

 


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