ゴシック小説のもう一つの条件は〝相続恐怖〟、もっと詳しく言うと〝血塗られ、汚れた血統の相続に対する恐怖〟である。空間恐怖と相続恐怖ということはクリス・ボルディックという人が言っていることで、前にも書いたようにその典型的な作品はポオの「アッシャー家の崩壊」に他ならない。
『夜のみだらな鳥』における相続恐怖は《ボーイ》の誕生そのものに関わっていて、《ボーイ》の物語がこの小説の中核をなすとすれば、相続恐怖のテーマは『夜のみだらな鳥』にあって中心となるものと見なされるだろう。
アスコイティア家の当主ヘロニモとイネス夫人の間には長らく子供が生まれなかった。ヘロニモはアスコイティア家の最後の生き残りであり、子孫を残すことは至上命令とも言える責務であった。二人の間に奇跡のようにして生まれるのが畸形児の《ボーイ》である。《ボーイ》の誕生には二人の人物が関わっている。《ムディート》ことウンベルト・ペニャローサとイネスの乳母ペータ・ポンセである。ペータ・ポンセは乳母であると同時に魔女でもあり、《ボーイ》を畸形にするのはおそらくペータ・ポンセの妖術なのである。
イネス夫人とペータ・ポンセの関係は、第2章で語られるアスコイティア一族の物語に出てくる、娘のイネスとその乳母の関係を再現している。この物語でもイネスの乳母は魔女としての姿を現す。そしてこの魔女はアスコイティア家の先祖の手によって殺されるが、その前にイネスに何かを仕掛けていたらしい。その場面は次のように描かれる。
「父親は息子たちをしたがえて、娘の部屋の戸をこじ開けたが、そこへ入ると同時に叫び声をあげ、腕を広げた。わが目に映ったものを、とっさに、大きなポンチョの袖でほかの者の目からさえぎった。彼は娘を隣の部屋に閉じこめ、それからやっと、ほかの者が部屋へはいるのを許した」
一体何があったのか、娘イネスの身に何が起きていたのかについては語られることがない。しかし、あってはならないことがあったこと、その後イネスは父親によって修道院に幽閉されてしまうから、スキャンダラスな事態が起きていたことに間違いはない。のちに《ムディート》は未婚の娘イネスがその時赤ん坊を出産していたのではないかと推測している。
またこの場面で出現する一匹の黄色い牝犬もまた、イネス夫人懐妊の場面にも出てくるから、それが魔女の使い魔であり、もし《ムディート》の推測が正しければ、この牝犬もイネス夫人の懐妊に関与していたことになる。
第13章で語られるその場面は『夜のみだらな鳥』前半のエピソードのなかで、最もおぞましく、また最も重要な場面である。そこでイネス夫人を孕ませたのが、夫ヘロニモではないことが示唆されているからである。
「そのとおりだ、おれはヘロニモ・デ・アスコイティアだ。なんなら血の流れる傷口を見せても言い。おれは彼女を抱きしめた。ペータのベッドへ運んでいった。ウンベルトを跡かたもなく消してしまうためのように、イネスは泣きながら、ヘロニモ、ヘロニモと繰り返した。そして、その名前が繰り返されるにつれて、ヘロニモは大きくなっていった。……たしかに、君はウンベルトを消してしまった。(中略)結局おれはヘロニモでは有りえなかった。おれの巨きなペニスだけが、ヘロニモだったのだ。彼女もそれを悟った。悟ったからこそ、おれが裾をまくるのを許し、股を開いて、その性器をわたしに差しだしたのだ」
(ここでウンベルトがヘロニモに入れ替わるのは、選挙運動の過程でウンベルトがヘロニモの身代わりとなって、暴徒に腕を撃たれるからである。ヘロニモはウンベルトの血を腕に付けて負傷を装い選挙運動に利用する。)
もしそのとおりだとすれば(『夜のみだらな鳥』は全編《ムディート》の妄想としても読めるので、本当にはそのとおりの事実などというものはないのだが)、《ボーイ》の父親は《ムディート》だということになり、《ボーイ》を畸人化するのは《ムディート》の汚れた血と、ペータ・ポンセとその使い魔である黄色い犬ということになる。
そしてまたすべては、アスコイティア一族の先祖の物語に反響していく。イネス夫人もまた物語のなかの娘イネス・アスコイティアと同名であることを強く意識しているのである。
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