《幻想の牢獄》第2版 7図
ド・クインシーの文章を長々と引用したのにはわけがある。私はこの文章を読んだとき、ド・クインシーの描き出すイメージがあまりにも鮮明であるために、作品の中に階段を登る複数のピラネージの姿が本当に描かれているのだと思い込んでしまい、《幻想の牢獄》の一枚一枚をつぶさに見るという体験を強いられたのである。
当然ながら、ピラネージ本人の姿が作品の中に描かれているというようなことはない。ド・クインシーの記憶が間違っていたのか、コウルリッジの記憶が間違っていたのか分からないが、版画集のタイトルさえ「夢」と間違って記述されている。
しかし、階段を登っていくピラネージのイメージ、そしてさらに上方の階段にもう一人のピラネージがいて、さらに上を目指して登っていくというイメージは、間違いなく《幻想の牢獄》が見る者の内部に喚起するものである。私は現物を見たわけでもないド・クインシーの想像力に驚嘆の思いを禁じ得ない。
《幻想の牢獄》の視点は水平からやや上方を見上げる位置を取っている。いくつもの階段が縦横に張り巡らされて、上へ上へと見る者を誘導していく。しかもそれには限界がない。一つの丸天井がこの建築物の境界を画するかと思いきや、その奥にさらに高い丸天井が覗いている。また、迷路のように配置された階段こそが、見る者を上方へと誘うもっとも重要な装置となっている。
ユルスナールは次のように書いて、《幻想の牢獄》のもたらす無限感に言及しているが、それはもっぱら横の空間への広がりを想定していて、ド・クインシーが観察したような上方へと向かう無限感とはなっていない。
「中心を奪われたこの世界は同時にどこまでも拡張しうる世界なのだ。格子のはまった通気孔のあるこれらの広間の背後に、創造しうるあらゆる方向に、推定された、あるいは漠然と推定しうる、まったく類似の空間がつづいているのではないかとわれわれは疑う。石の廊下や階段をあちこちでだぶらせている軽やかな歩道橋や空中の跳ね橋は、可能なかぎりあらゆる曲線や平行線を空間に投げ出そうとする同じ配慮に応えるもののようだ。自分自身の上に締め金をかけたこの閉ざされた世界は、数学的には無限なのである。」
「自分自身の上に締め金をかけたこの閉ざされた世界」という言葉は正確である。ユルスナールはそこにゴシック的な閉鎖空間を見ているし、それは「黒い脳髄」という隠喩を呼び寄せもするだろう。そして「数学的には無限である」という言葉もある程度は正しい。閉鎖空間としての脳髄は、物理的には境界を持っているにも拘わらず、その内部に無限の世界を孕むことも出来るからである。
しかし、ユルスナールはド・クインシーが現物を見てもいないのに、そこに読み取った垂直の方向への無限感を掴み損ねているように思う。牢獄は上へ上へとどこまでも続いていく。この牢獄は"塔"となるべく、どこまでも増殖を続けていくのである。
ド・クインシーの最後の言葉に注目しよう。「――これと同じ果てしない成長と自己増殖の力を帯びて、私の夢の建築は進んだ」という言葉は、阿片吸引者たる自分に起こった夢想について語っていて、それがピラネージの夢想とまったく同じものであることを主張している。
ド・クインシーは先の引用に続けて、「病いの初期には、私の見る華麗な夢は、事実、主として建築的なものであった」と書いている。ド・クインシーの夢が建築的なものであった以上に、ピラネージもまた建築的夢想によって《幻想の牢獄》を構築したのである。
だからユルスナールが解釈するように、ピラネージの夢が必要以上にロマン主義的なものであったとは思われないのである。
ところで、次ぎに紹介するのは、ピラネージの上昇する夢を正確に捉えたフランスの漫画作品である。
(この項おわり)
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