玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(7)

2019年01月16日 | ゴシック論

●酒井健『ゴシックとは何か』①
 馬杉宗夫の『パリのノートル・ダム』はどんなに建築についての精緻な叙述を重ねても、〝ガイドブック〟にすぎないが、ジョルジュ・バタイユ研究者である酒井健の『ゴシックとは何か』はヨーロッパ中世精神史のエスキースと言っても過言ではない。サブタイトルに「大聖堂の精神史」とあるが、看板倒れになっていない。
 第一に『ゴシックとは何か』は、我々がヨーロッパ中世に対して持っているイメージ、暗黒時代とか迷妄の時代とかいうイメージを払拭し、新たに自然とキリスト教徒の関わりの中に置き直してくれる。酒井が提出する中世のイメージは、どこまでも鮮明で強固である。
 酒井は若いときに北フランスのボーヴェで、世界一高い天井を持つゴシック大聖堂を見て以来、ゴシック大聖堂に取り憑かれたというが、私もまた若いときにノートル=ダム・ド・パリに接していれば、そうなっていたかも知れない。それほどにゴシック大聖堂の呪縛力は強く、ジョルジュ・バタイユは『ランスの大聖堂』を書いているし、J・K・ユイスマンスはシャルトル大聖堂をテーマにした『大伽藍』を書いているのである。
 酒井のゴシック熱はしかし、ヨーロッパというものを知るという根本的な問題意識に結びついている。酒井はルネサンス期イタリアの美術史家ジョルジォ・ヴァザーリのゴシック批判を引用して次のように言う。

「秩序や比例を無視した昇高性・過剰さというゴシックの根本的特徴、そこには自然界の豊饒なエネルギーに対する中世人の感受性が読み取れるのだが、……(以下略)」

 この一文が本書を貫く基本的テーマとなる。酒井は『ゴシックとは何か』を自然についての分析から始めている。そこにゴシックの淵源があるというのである。酒井は11世紀初め頃の北フランスは広大な森に覆われていたと言い、次のように説明する。

「平地林は恐ろしい。見晴らしがきかないため、自分が今どこにいるのか、どこを歩いてきたのか、さっぱり分からないからだ。おまけに、狼、野盗、無法者が、木の背後の暗闇に跋扈している。」

 このイメージは強烈である。山岳地帯の森林ならばまだ見通しがつくが、平地に林ではそうはいかない。我々が現在の平野部について抱くイメージとはまったく違っていて、これが北フランス中世の原風景ということになる。そしてこの深い森のイメージはゴシック大聖堂の高い柱から伸びるアーチ型曲線の中に生きている。また林立する多くの尖塔は北フランスの森を覆っていた高木の落葉広葉樹のイメージそのものなのである。
 さらに酒井はこの頃まで続いていた異民族の侵略を挙げる。北フランスの中世人達は絶えざる恐怖の中で生活していたのである。こうした恐怖は、いつかこの苦労も報われ、悪しき者は地獄へ、善き者は天国へと導かれるというキリスト教の《最後の審判》によって、救われるものと考えた。《最後の審判》の図像はゴシック大聖堂を飾っていて、パリのノートル=ダム大聖堂の正面の三つの扉口の中央が《最後の審判》になっているように、ゴシック大聖堂のすべての正面中央は《最後の審判》の扉口になっているのである。最後の審判というものが北フランスの中世人の心を捉え、それが中心思想になっていく原因を、酒井は異民族の侵攻に見ているわけである。
 異民族の侵攻も終わり平和な時代がやってくると、気候の温暖化にも恵まれて人々は森林を切り拓いて農地を造る開墾の作業を盛んに行うようになる。11世紀半ばから1300年にかけて、フランス全土の6割強を占めていた森林はわずか2割にまで減少する。
 その中心的役割を果たしたのが修道士達で、彼らは神的な霊魂を持たない自然を征服することに何の疑問も持たなかった。こうして農業革命がもたらされ、穀物生産量は飛躍的に向上していった。食糧事情が良くなれば人口が増加することになるが、人口の増加率は食糧の増産率をはるかに超えていたため、飢餓の恐れが解消されることはなく、農民達はさらなる開墾に駆り立てられていった。
 一方、農業生産の効率化は農村の余剰人口を生み出し、彼らは農村から都市へと移住していく。これが大聖堂建立の背景となる。酒井は次のように書いている。

「農村域では背に腹はかえられず声域の森林を次々に滅ぼしてゆき、都市部では、これまた食いぶちを求める者たちが、異境の自然信仰をかかえながら、次々に移り住んできた。ゴシック大聖堂はこのような自然の消滅、人口の移動という大きな歴史の変化を背景に、都市のなかに建てられていったのである。」

酒井健『ゴシックとは何か――大聖堂の精神史――』(2006、ちくま学芸文庫)

 


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