「游文舎」のビュルラン展では、二○○八年の《深い闇の奥底》シリーズの他に、二○○九年の《Jardin》シリーズも展示された。《深い闇の奥底》が半獣神や古代の生物達が跳梁跋扈する賑やかで野蛮な世界であったのに対して、《Jardin》の方はモノクロの静謐な世界である。
一見まったく別人の作品とも思えるような世界に、わずか一年で移行したということが信じられない。《深い闇の奥底》で人類以前の時代への遡行を繰り返しながら、そこを突き抜けて、まったく別の次元へ到達してしまったかのようだ。
《Jardin》シリーズは製図用のトレーシングペーパーに描かれているが、空と森のようなもの、そして森の間を地平線に向かって伸びていく道のようなものの、無限のヴァリエーションで成立している。Jardinは“庭園”を意味しているが、これはヨーロッパの幾何学的な設計による“庭園”ではない。
むしろそれに違反した“庭”であり、現実の“庭”ではなく、時間軸を遡行しながらビュルランが発見した原始の“庭”であり、夢想の“庭”でもある。ぐにゃぐにゃの刷毛目の残された粘着質の空は、この世のどのような空とも違っている。
インクを“拭いつける”ようにして描かれた森のようなものは、現実のどのような森との共通性も持っていない。そして道だけは整然とした方向に刷毛目を伸ばし、地平線の奥の方へと向かっていく。
《Jardin》シリーズもまた、ビュルランにとってみれば“遡行の旅”なのだ。《深い闇の奥底》で敢行した人類以前の時代への遡行の旅ではなく、今度は意識の底=無意識への遡行の旅、あるいは始源の夢への遡行の旅ではないだろうか。
道の刷毛目が示す方向は、空間だけを表してはいない。道が伸びていく地平線は時空の地平線であり、現実の地平線ではない。観る者は、その道を辿ってどこへ連れていかれるのかということに恐怖を感じてもよい。我々は我々自身の無意識の奥底へと連れ去られるのであるから。
ほとんどの作品に、誰かが引いた図面がそのまま残されている。その幾何学的な図形が、不定形の森のようなもの、そして粘着質の空に鋭く干渉する。意識や現在を象徴する図形が、無意識や過去への入口のような世界に信じがたい緊張感をもたらす。恐るべき作品群である。
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JARDINシリーズ
一見まったく別人の作品とも思えるような世界に、わずか一年で移行したということが信じられない。《深い闇の奥底》で人類以前の時代への遡行を繰り返しながら、そこを突き抜けて、まったく別の次元へ到達してしまったかのようだ。
《Jardin》シリーズは製図用のトレーシングペーパーに描かれているが、空と森のようなもの、そして森の間を地平線に向かって伸びていく道のようなものの、無限のヴァリエーションで成立している。Jardinは“庭園”を意味しているが、これはヨーロッパの幾何学的な設計による“庭園”ではない。
むしろそれに違反した“庭”であり、現実の“庭”ではなく、時間軸を遡行しながらビュルランが発見した原始の“庭”であり、夢想の“庭”でもある。ぐにゃぐにゃの刷毛目の残された粘着質の空は、この世のどのような空とも違っている。
インクを“拭いつける”ようにして描かれた森のようなものは、現実のどのような森との共通性も持っていない。そして道だけは整然とした方向に刷毛目を伸ばし、地平線の奥の方へと向かっていく。
《Jardin》シリーズもまた、ビュルランにとってみれば“遡行の旅”なのだ。《深い闇の奥底》で敢行した人類以前の時代への遡行の旅ではなく、今度は意識の底=無意識への遡行の旅、あるいは始源の夢への遡行の旅ではないだろうか。
道の刷毛目が示す方向は、空間だけを表してはいない。道が伸びていく地平線は時空の地平線であり、現実の地平線ではない。観る者は、その道を辿ってどこへ連れていかれるのかということに恐怖を感じてもよい。我々は我々自身の無意識の奥底へと連れ去られるのであるから。
ほとんどの作品に、誰かが引いた図面がそのまま残されている。その幾何学的な図形が、不定形の森のようなもの、そして粘着質の空に鋭く干渉する。意識や現在を象徴する図形が、無意識や過去への入口のような世界に信じがたい緊張感をもたらす。恐るべき作品群である。
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JARDINシリーズ
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