玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

オノレ・ド・バルザック『幻滅』(1)

2020年07月26日 | 読書ノート

 随分長いことこのブログから遠ざかっていたが、そろそろ復帰しなければならない。今年3月と4月は、「北方文学」にヘンリー・ジェイムズの『鳩の翼』についての論考と、「群系」にリービ英雄についての文章を書くことに費やした。5月と6月の大半は「北方文学」の編集に時間を取られていたから、7月になってようやく好きな本を自由に読むことができるようになった。

 5月から今月までにバルザックを三作読んでいる。最初に『百歳の人――魔術師――』。この作品はバルザック青年期の習作とも言うべきもので、はっきり言って出来はよくない。この作品は明瞭にチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』の影響が窺われ、出来そこないのメルモスといった印象しか受けない。『百歳の人』を読んで一番強烈に感じたことは、『放浪者メルモス』のマチューリンがいかに偉大であったかということに他ならない。

 その後『浮かれ女盛衰記』を読んで、カルロス・エレーラ神父ことジャック・コラン、またの名ヴォートランの、人間ばなれした活躍ぶりを堪能することができた。この小説ではリュシアンもその恋人エステルも魅力的だが、主人公は間違いなくヴォートランだと言ってよい。ヴォートランは『ゴリオ爺さん』にも出てくるから、既知の人物ではあったが、そこではまだ彼の力の片鱗しか見せていない。

 おそらく『浮かれ女盛衰記』において、ヴォートランに最も多くの活躍の場が与えられたのである。それほどにこの人物の印象は強烈である。ヴォートランは脱獄囚であり、底の知れぬ悪漢として登場するが、そこで思い出すのもまたマチューリンの『放浪者メルモス』なのである。ヴォートランの人物像は間違いなく、その系譜を『放浪者メルモス』に負っている。青年期の若書きとして不十分だった『百歳の人』の魔術師が、円熟の境地と共にヴォートランへと成長し、メルモスにも劣らぬ人物に発展しているのである。

 バルザックの創造した人物は2000人を超えると言われているが、主人公クラスの人物だけを取り上げて比較した時に、ヴォ―トランに比肩するような人物が他に存在するであろうか。多分ヴォートラン、つまりジャック・コランこそが、バルザックが創造した最も偉大な人物なのだと私には思われる。

『浮かれ女盛衰記』にはヴォートランがそのたぐいまれな能力、詐欺師的な謀略の力や他の登場人物を信服させる人間的な魅力を発揮する場面がふんだんに用意されているが、私にとって不可解だったことは、カルロス・エレーラことヴォートランは、プライドばかり強くてだらしのない男リュシアン・ド・リュバンプレに、なぜここまで肩入れするのかということであった。ヴォートランはリュシアンの金銭的危機に際しても、恋愛的危機に際しても、いつでも強大な力を発揮して彼を救い続けるのである。

『浮かれ女盛衰記』は大変に面白い小説であったが、そんな疑問が残ったために、『浮かれ女盛衰記』がその続編として位置づけられる『幻滅』を読まないわけにはいかなくなってしまったのである。『幻滅』は若い時に一度読んでいるのだが、今や全く忘れはて、その内容を覚えていない。このバルザックの最高傑作とも言われるこの作品の、重苦しい雰囲気だけは記憶に残ってはいたが。

 それにしてもこのところ19世紀フランスの小説ばかりを読んでいる。バルザック、フッローベール、スタンダールが中心で、ようやく私はフランス文学の主流をなす作家たちの作品に触れることができているのである。いわゆる19世紀的リアリズムということで括ることのできる作家たちである。フローベールは強烈なリアリズムとさらに強烈なロマン主義とに引き裂かれた作家だったから、作品の数から言っても本命はやはりバルザックということになる。

 面白い小説が読みたくなると、私はいつでもバルザックに立ち戻る。「困った時のバルザック」と言っていて、バルザックの小説を読んで後悔するということがない。そのスケールの大きさといい、登場人物達の魅力といい、ストーリーの面白さといい、いつでも安心して立ち戻ることのできる作家なのである。

 

オノレ・ド・バルザック『百歳の人――魔術師――』(2007、水声社、「バルザック幻想・怪奇小説選集」①)私市保彦訳

オノレ・ド・バルザック『浮かれ女盛衰記』(1975、東京創元社バルザック全集13,14巻)寺田透訳

 



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