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玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『カサマシマ公爵夫人』(2)

2018年02月09日 | 読書ノート

 先の引用に続いてスーザン・ソンタグは次のように言っている。

「ようするに、こうなの。この世界――そこに書かれているようなことを重視する世界のことだけど――に身を投じる、なんだか、のべつ幕なし新しい料理をつくっているような気になり、以前とは違う料理の仕方を身につけ、それから大騒ぎのパーティなんかに顔を出しては、これは気に入った、あれは苦手とか、何だかんだ言うようになる。だけど、こう思うのよ。何かを自分の中で使い果たすことはあるけど、いつだって、またそこへ戻らなければならないこともありうる。だから、けっして断定的な判断は下すべきではないって……」

 彼女の言葉をヘンリー・ジェイムズの『カサマシマ公爵夫人』に関連づけて考えることはむずかしい(ソンタグのインタビューの翻訳者に問題があるのかも知れない。特に「そこに書かれているようなことが重視されるような世界」というのがよく分からない)。
 ただし、1960年代のアメリカが、次々と新しいものに飛びついて飽きないという精神風土にあったことはソンタグの言葉から推測できることである。新しい価値観を求めてアメリカのロックも成長していったわけだが、ソンタグが大好きだったドアーズのジム・モリソンも薬物が原因で死亡し、一時代を画したウッドストック・フェスティバルで注目された、ジャニス・ジョプリンもジミ・ヘンドリックスも同じようにして死んだ。
 薬物はロックの歴史の中にあって、新しいものを生み続ける原動力であると同時に、その担い手たちを殉死に追いやったことも事実である。「何かを自分のなかで使い果たすことはあるけど、いつだって、またそこへ戻らなければならないこともある」という言葉はそのように理解される。
 つまり新しいものを求め続けるのではなく、いつでも自らの本源に帰ることのできるスタンスが重要だということなのだろう。「断定的な判断」というのは、不断の価値判断でもあり、過去の自分に対する断罪をも意味していると思われる。
 そんなことがどうヘンリー・ジェイムズの『カサマシマ公爵夫人』に関わっているのかと言えば、ジェイムズの小説が新しい価値観と古い価値観との対立の構造をテーマにしているからだ。具体的に言えばそれは労働者階級の革命思想と、貴族階級の保守思想との対立ということになる。
 そうした対立を一身に背負うのが主人公のハイアシンス・ロビンソンであり、彼の中には貴族であった父親の血と、お針子だった母親の血の両方が流れていて、彼は革命思想と保守思想の間で葛藤を続けることになる。
 19世紀のロンドンと1960年代のアメリカを単純に比較することなどできるはずもないが、スーザン・ソンタグが『カサマシマ公爵夫人』の中には「1960年代に関するすべてが書かれている!」と言うことには、はっきりした根拠がある。
 アメリカの学生たちの革命思想(ロック・ミュージックやヒッピー運動がそれを担っていた時代が確実に存在する)と保守思想、言い換えれば伝統思想との相克の問題がそこにはある。伝統に縛られた自分を否定し去り、新しい革命思想を追求していくことには、ある根本的な誤りがあるということなのである。
『カサマシマ公爵夫人』の主人公ハイアシンス(ヒアシンスという花の名前が付いているが男性である)は母親に殺された父親の貴族社会からなんの恩恵も受けていない、しがない製本工に過ぎない。彼にはつけを支払ってもらう権利がある。
だから彼はロンドンの地下組織に接近していって、一時は革命思想に染まり自ら犠牲となってテロを実行するという誓約をしてしまう。その後ハイアシンスはパリとヴェネチアに旅をして、人類がもたらした伝統というものの価値を知ってしまうのである。
 それがハイアシンスの不幸の始まりとなる。

 


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