スーザン・ソンタグが『カサマシマ公爵夫人』を高く評価しているのはなぜなのかについては、よく分かったように思う。しかし、私はヘンリー・ジェイムズの作品の中ではかなり異質なこの作品を重要視することができない。それはなぜかということを考えるときに、まず他のメインとなる作品との違いについて触れておかなければならない。
第一に、下層社会を舞台設定とするということが、ヘンリー・ジェイムズの代表作といわれる作品にはまずない特徴であるということを挙げなければならない。主人公ハイアシンスは貴族の血を半分背負っているが、貧しい生活を送る人物である。ハイアシンスの周辺にいる何人かの人物も、他の作品ではけっして登場することを許されていない。
この小説はエミール・ゾラ的な作品といわれるが、ヘンリー・ジェイムズ自身の「エミール・ゾラ」論を読んでみると、意外にゾラに対して寛容であることが分かる。もちろんゾラの小説の底の浅さや、人間に対する分析の欠如に対しては厳しく批判しているが、そうではない作品として『居酒屋』をはじめとするいくつかの作品だけは高く評価している。
確かに冒頭の部分、育ての親アマンダ・ピンセントがハイアシンスを、牢獄で死にかかっている母親フロランティーヌのところに連れて行く場面などは、確かにゾラ的でよく描かれていると思う。「これがヘンリー・ジェイムズの小説か?」と思うくらい、他の小説とまったく違っている。
しかし他の場面、革命思想に取り憑かれた地下組織の人物たちが蠢く場面については、巧く描けているとはとうてい思えない。パリコミューンでのフランスからの亡命者プパンなどは、たいした人物ではないからいいとしても、リーダー的存在であるポール・ミュニメントの人物造形が不十分と言わざるを得ない。
ハイアシンスとポールの間の友情と離反こそがこの小説の中心テーマであるとすれば、ポールの輪郭が不明瞭であることは致命的ではないか。ポールは目的のためには手段を選ばない冷酷な人物であるらしいが、そのことがはっきり描かれていない。
この小説はドストエフスキーの『悪霊』によく似ているが、スタヴローギンとは言わぬまでも、せめてヴェルホーヴェンスキーくらいの役割をポールに与えないと、ハイアシンスの悲劇が切実に伝わってこない。
不明瞭な人物像と言えば、タイトルとなっているカサマシマ公爵夫人その人の人物像もはっきりしない。彼女は本気で革命思想に荷担しているのか、あるいは貴族社会に愛想を尽かした女性の単なる気まぐれでしかないのかというところも不分明である。
多分後者であるのに違いないが、ではなぜタイトルにまで夫人の名前を採用する必要があったのか、あるいはまたハイアシンスにとって公爵夫人の存在とはなんだったのか、という疑問にこの作品は答えてくれないのである。
革命思想が本質的に孕む狂気にまで肉薄した『悪霊』とは比べようもないが(ヘンリー・ジェイムズはドストエフスキーが好きではなかったようだ)、19世紀末のロンドンにおける革命思想に翻弄される人間たちの姿をもう少し明瞭に描いて欲しかった。
ただし、ハイアシンスの庇護者である老ミスター・ヴェッチだけはよく造形されている。この人物の役割をもっと大きくすれば、この小説はもっと魅力的なものになったに違いない。
しかし、何を言っても〝ないものねだり〟である。ヘンリー・ジェイムズの仕事はもっと別のところにあった。この小説はヘンリー・ジェイムズがヘンリー・ジェイムズになる前の作品であって、心理小説的な要素も弱いし、言ってみれば19世紀的リアリズムに則った〝普通の〟小説であった。
私はヘンリー・ジェイムズに普通の小説を期待しない。私が期待しているのは心理小説の開拓者としてのヘンリー・ジェイムズであって、それ以外のものではない。
ただし私はこの作品より前に書かれた『ある夫人の肖像』くらいは読んでおかなければならないのだが、これで読みづらくなった。
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