ギュスターヴ・フローベールは私にとって、とても気になる作家である。この年になるまでその代表作『ボヴァリー夫人』を読んだことがなく、読んでも主人公エンマ・ボヴァリーの卑俗な人間性にまったく共感できず、「こんな奴、早く死んでしまえ!」とまで読んでいて思ったにも拘わらずである。『ボヴァリー夫人』が一人の田舎女の破滅への道筋を、冷徹にリアリズムの手法で描いたことは評価できても、どうしてもこの作品に感動することができないし、感動を与えない作品がどうして傑作と言えようか。
しかし、この世界文学史上に燦然と輝くこの作家が、こんなレベルではあるまいと、『三つの物語』を読んで、フローベールを完全に見直したのである。さらに『サラムボー』を読むおよんで、やはりフローベールは偉大な作家なのだと再認識するに至った。
だが、『ボヴァリー夫人』の作者とは同じ人間が書いているとは到底思えない『サラムボー』を読むと、この作家はどうしてこんなに両極端の作品を書いたのだろうと思ってしまう。前者は自然主義リアリズムの元祖とも言うべき作品であり、後者は豪華絢爛な歴史絵巻のような作品ではないか。しかも『ボヴァリー夫人』は1856年に「パリ評論」に連載されたのだし、『サラッムボー』の方は1862年に刊行された作品で、その間に他の作品は書かれていない。
しかも『ボヴァリー夫人』の前の前に書かれた作品は『聖アントワーヌの誘惑』という、これまたリアリズムとはかけ離れた作品で、この作家はロマンチィックな心情とリアリズムへの志向を自分の中に同居させていたのだろうかと考えざるを得ない。しかしそんなことが可能なのだろうか。むしろ矛盾した二つの性向に引き裂かれていたのではないのか。
世界文学という地平で考えたときに、このような作家が他に存在するとは思えない。彼の二人の弟子であるギ・ド・モーパッサンも、エミール・ゾラも彼のリアリズム小説の後継者でありはすれ、ロマンティック小説のそれではない。もちろんロマン主義からリアリズムへ移行していくような作家は、文学思潮の過渡期には存在したであろうが、同時にそのような傾向を併せ持つような作家は少なくとも〝文豪〟と呼ばれるよう範疇には存在しない。
ましてやフローベールの場合、『ボヴァリー夫人』は自然主義リアリズムの元祖と呼ばれるほどの作品であり、一方『サラムボー』はロマン主義の極致と言いたくなるような作品であって、その落差は限りなく大きい。今回『感情教育』を読もうと思ったのは、そういったフローベールの矛盾がどこから生まれてくるのか確認してみたかったからに他ならない。
『感情教育』は主人公フレデリック・モローが、パリで大学入学資格試験に合格し、大学に入るまでの二か月間を故郷のノジャン=シュル=セーヌで過ごすために、パリのサン=ベルナール河岸で蒸気船に乗る場面から始まる。フレデリックは船でこの小説の主要な登場人物であるジャック・アルヌーとその夫人との運命的な出会いをする。いきなり彼はアルヌー夫人の美しさに目がくらんでしまい、夫人は彼の憧れの女性となっていく。
フレデリックが夫人に抱く思いは次のようなものである。
「小麦色の、これほどつややかな肌は見たことがない。これほど心をそそる身体の線も、陽光に透きとおって見えるほどの繊細な指も。なにか新奇なものでも目にするかのように、フレデリックは茫然と裁縫かごを見つめていた。なんという名前で、どこに住んでいるのだろう? どのように暮らし、どんな人生をおくってきたのか? この人の部屋のある家具を、身につける衣服のすべてを、さらにはつきあっている人たちを知ることができないものか。肉体を所有したいという欲望すら、より切実な欲求のもとに、際限のない、胸ぐるしいまでの好奇心のなかに消えうせてしまった。」
結構、即物的な欲望のもとに夫人に対する憧れは表現されている。一応性的欲望は否定されてはいるものの、それを覆っているのはそこに至ろうとする好奇心の薄いヴェールに過ぎない。宿命的な女性との出会いの表現としては、ほとんどロマンティックな要素はなく、リアリズムに徹している。
ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(2014,光文社古典新訳文庫)太田浩一訳
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