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ギュスターヴ・フローベール『感情教育』(2)

2020年01月18日 | 読書ノート

 この小説はフローベールが書いた〝現代物〟であって、『ボヴァリー夫人』の系列に属するリアリズム小説なのである。出だしのリズム感がいい。この小説で重要な役割を演ずるアルヌーとその夫人に主人公を最初に会わせているところ、乗船の混乱のなかに主人公の性格やアルヌー家の生活ぶりなどを過不足なく描いているところなどは、さすがと思わせるものがある。

 フレデリックがノジャンに着くと、間断なく貴族出身の母親を登場させて、彼女の息子に対する盲目的な期待をほのめかし、次いで親友シャルル・デローリエを登場させて、彼の革命思想を紹介し、というようにフレデリックの家庭環境と時代の状況との素描を描いていく。ここまでわずか2章を費やしているに過ぎない。

 この章を読んだだけで、作家がこれから何を書こうとしているのかが想像の領域に入ってくる。フローベールは田舎出の一人の青年がパリに出て、時代の政治状況に翻弄されながら、女性遍歴を重ねていくといった小説を書きたいのに違いないのだ。

 フレデリックという青年は幾分バルザックのラスチニャックに似ているところがある。ラスチニャックのようにパリに出て、コネを利用しながら上流階級に取り入り、のし上がろうとする野心を、フレデリックもまた少しは持っているからである。またデローリエに革命思想を披瀝させているところを見ると、フローベールは当時の歴史的状況にウエイトを置いて、若き革命思想家たちの熱狂と挫折を描きたいのだということも予想がつく。

 この小説の時代設定は1840年から1867年までとなっており、その間にパリは1848年の二月革命、その反動による6月蜂起、ルイ・ナポレオンの台頭、1851年のクーデタと、翌年のルイ・ナポレオンの皇帝即位を体験している。激動の時代を作家は描こうとしたのである。

『感情教育』は『ボヴァリー夫人』と違って、バルザック的な小説なのではないかという期待感を持たせるオープニングである。私は『ボヴァリー夫人』の登場人物達の凡庸さに、絶えがたいものを感じながら読み進んだ記憶があるが、『感情教育』の方は少し違っている。フレデリックやアルヌーもデローリエも、結構魅力的に描かれているし、私は彼らに幻滅しないで済むかもしれないという期待感を持ったのであった。こうした期待感は第1部の間続いていく。第1部は主要な人物を登場させる、いわば準備段階であって、ここでフレデリックの友人たちが紹介され、彼らの政治的位置もまた確定される。アルヌーのやっている画廊への出入りが中心となり、その周辺にさらに様々な人間が登場してくるが、ここではやはりアルヌーの、いささかお調子者であるが、人の善いところや誠実な性格が強調されていく。

 確かに『ボヴァリー夫人』に登場する人物達よりもずいぶんと生き生きしているし、戯画化されて描かれている人物もいない。『ボヴァリー夫人』を書いたのがフローベール34歳の時、そしてこの『感情教育』を書いたのが47歳の時だから、15年ほどの間に彼の人物造形は進歩しているのである。

 ところでフレデリックは財産問題の関係で一旦帰郷し、不遇をかこつが、伯父の死去により遺産が転がり込んできたことによって、再度パリへ出ることになる。第2部はアルヌーの愛人であるロザネットのパーティの場面から始まるが、その狂騒ぶりがすごい。参加者のばかばかしい仮装ぶりや、ダンスに熱中する狂奔ぶり、酩酊による混乱まで、実にリアルに描かれている。フローベールは集団の描き方が本当に上手い。『サラムボー』での戦闘場面でその腕はいかんなく発揮されていたし、このパーティの場面や、後に出てくる二月革命蜂起の場面も特筆すべきものがある。

 ロザネットの狂騒を極めたパーティの場面は、その後の展開を予兆するものとなっている。フレデリックとロザネットの関係も、この時の出会いに始まるのだし、さらに言えば、フレデリックの堕落もまたこの時に始まるのであるから。というわけで、第2部の最初のあたりから雲行きはおかしくなってくる。

 フレデリックは何もしようとせず、遊び呆けているばかりだし、金持ちの坊ちゃんもいいところで、読者にとってはしだいにその魅力を失っていく。人の善いアルヌーもまた、商売の行く詰まりから道義的な逸脱を繰り返すようになる。小説はしだいにバルザック的な偉大さからも、高揚感からも遠ざかっていくようにさえ見えるのである。


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