さて、この小説が「人間喜劇」の中の「哲学的研究」に位置づけられ、その中でも特別な光を放っているのは、そこでスウェデンボルグの思想やルイ自身の思想についての多くの議論が行われているからである。『セラフィタ』でもそうした議論はあったが、『ルイ・ランベール』の方がその比重は大きく、まさに〝哲学小説〟と言うにふさわしい内容を誇っている。
まずその『天界と地獄』についての読解は、ルイによって語られたものとして、この小説の語り手(バルザック自身と言ってもよい)によって、以下のように要約されている。
人間の内部にはお互いに違う二つのものが住んでいて、その一つは天使的な存在であり、もう一つは物質的な存在である。人間はその天使的な気高い性質を育てることに専念しなければならず、そうすることによって「天界を開く鍵」が与えられる。人間たちはこの二つの存在の間で、天使的なもの(内なるもの)の完成度にしたがって、それぞれ異なった圏域に位置づけられるのである。
ここにはヨーロッパの思想史に根強い、物質と精神の二元論がとりわけ強く意識されていて、スウェデンボルグの教説もそうしたものの延長にあることが分かる。ルイはそこから独自の理論=意志論を展開させていくのだが、それは「意志の化学」と自解されるように、ある意味では科学的な議論なのである。
ルイによればそれは、「電気的流動体」という物質的な背景をもっていて、それに対する「作用と反作用」が人間という存在の条件となる。つまり「こうしてわれわれの意欲と観念の全体は作用を構成し、外部的な行為の全体は反作用を構成する」というわけである。
この議論は明らかにスウェデンボルグの説を物質的な条件の下に敷衍したものと捉えることができる。私はスウェデンボルグを読んだことがないのでよく分からないが、ルイの議論の全体がスウェデンボルグの思想の内部に含まれているような気がする。
19世紀はなんといっても科学の世紀であった。このような擬似科学的言説は、当時の幻想小説や恐怖小説によく見られるものであって、そこにスウェデンボルグの思想が与えた影響は大きなものがあったのであろう。しかし擬似科学といっても、今日の我々から見てそうであるのであって、当時の人々には〝科学的な〟ものと受け止められていたであろうことは想像に難くない。
しかしバルザックはそのこと、つまりはルイの思想の擬似科学性についてよく認識していたと思われる。次のような一節がその証拠となる。
「ひょっとしたら天使についての空想は、あまりにも長く彼の仕事を支配しすぎたかもしれない。しかし学者は金(きん)をつくろうとあれこれ努めているうちに、いつの間にか化学を創始したのではなかったろうか。」
つまり錬金術という疑似科学が、物質についての真正の科学を生み出したように、疑似科学としての魂の錬金術もまた、精神についての真正の科学を生み出すかもしれないとして、バルザックはルイ・ランベールの説を擁護しているのである。
またバルザックはルイの「意志論」について、その子供っぽさを指摘することも忘れない。以下は上の引用に続く部分である。
「彼の「意志論」がどの点でまちがっていたのかを見てとるのはやさしい。すぐれた人々を目立たせる長所をすでにいくつかそねていたにもかかわらず、彼はやっぱりまだ子供だった。抽象的思弁に巧みで、それをゆたかに身につけていたにもかかわらず、未だに彼の頭脳は、すべての青少年たちにつきまとって離れないあの心地よい信念というものに影響されていた。」
透徹した分析である。ルイの思想に対するというよりも、若き日のバルザック自身の思想に対する透徹した分析なのである。
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