第3部は1848年の二月革命の場面から始まる。第2部の終わりで、ようやくアルヌー夫人との逢い引きの約束を取り付け、その場所近くに部屋まで用意しておきながら、夫人の息子が高熱を出したためにすっぽかされ、その腹いせにロザネットを連れ込んで関係するという、およそ高潔とは言いがたいフレデリックの行為が、そうした政治的激動と並行して描かれていくのである。
このあたりの転換が実に上手く描かれているが、かといってフレデリックの場当たり的な変節が免罪されるものではない。二月革命の銃声をフレデリックが聴くのは、ロザネットを部屋に連れ込もうとしている時である。彼はそれを冷静な態度で聴くのである。
「「ああ、市民が殺られているんだな」フレデリックは平然と言った。およそ冷静なところのない人間でも、時と場合によっては、動じることなく人の死を見ていられるほど、他人に無関心になってしまうものなのだ。」
つまり、フレデリックにとっては、兵に銃弾を浴びせられる市民よりも、目下のところはロザネットと関係を結ぶことの方が重大事だということだ。小説の主人公がいつでも清廉潔白で、道徳的にも品行方正である必要などどこにもないが、それにしてもこのフレデリックの行為は下劣であり、彼の品性を疑わせるものがある。
と同時に読者は、このように卑劣で矮小な男を主人公にする作者の意図が、どこにあるのかという疑問を感じてしまう。まさかフローベールがフレデリックの行為を祝福しているわけではあるまい。それはフローベールが『ボヴァリー夫人』で、彼女の軽薄で後先を顧みない欲望の発露に対して、祝意を表しているわけではないことと同様であろう。
しかし、それは罰せられなければならない。ボヴァリー夫人は自らの低劣な欲望の代償として、自殺に追い込まれる形で罰を受けるが、フレデリックの方は罰を受けるどころか、この後もアルヌー夫人に対する欲望を解消してしまうわけでもなく、ロデリックの肉体に溺れながら、自らの後ろ盾となってくれた銀行家のダンブルーズ氏の夫人にまで、触手を伸ばすことになるのである。
最後までフレデリックは罰を受けるに至らない。それどころかアルヌー夫人への懸想と、ロデリックとの関係を続けながら、故郷ノジャンの幼なじみの娘ルイーズの恋心を弄び、しまいには金銭目的で彼女との結婚を望みさえする破廉恥ぶりである。なぜフローベールはこのような男を主人公に据えたのか。そしてそれについては主人公のみならず、彼の友人達もまた同罪なのである。その点については後で触れることにして、とりあえず第三部の冒頭を見てみよう。
フローベールは二月革命で蜂起した市民たちの闘いを描いていく。フレデリックもあちこち駆け回るが、市民の闘いに参加するわけでもなく、まるで野次馬のように闘いの現場を見て回る。パレ・ロワイヤルでの群衆の暴動の様は次のように描かれる。
「やがて、狂騒はいっそう険悪になった。淫猥な好奇心から、あらゆる小部屋、あらゆる片隅がひっかきまわされ、引き出しという引き出しがあけられた。徒刑囚たちは王女の寝床に腕をつっこみ、陵辱できない腹いせに、その上を転げまわった。より陰険な顔つきの男たちが、盗むものを物色しながら黙々と歩きまわっていたが、いかんせん人の数が多すぎた。戸口から、一列につらなる部屋を見わたしても、もうもうと埃の舞いあがるなか、金色の家具調度にとりまかれ、黒ぐろとした塊となって群がる民衆の姿が目につくばかり。だれもが息をはずませている。熱気でしだいに息苦しくなってくる。息がつまりそうになって、ふたりは部屋を出た。」
ふたりというのはフレデリックと友人ユソネのことである。とにかくこういう場面を描かせたら、フローベールの右に出る者はいないだろう。混乱のなかでの民衆の無軌道ぶりまで描かれている。
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