「私」はパテラに対する拝謁許可証をもらうために、アルヒーフ(役所)へ行ってそこで眠っている男を起こし、彼に訊ねようとするが、返ってくる返事は次のようなものである。
「拝謁許可証を受けるのには、あなたの出生証明書、洗礼証明書、結婚証明書のほかに、父親の卒業証明書と母親の種痘証明書が必要です。廊下の左手にある十六号の事務室で、あなたの財産、学歴、所有する勲位の申告をなさってください。岳父の素行証明書もあれば結構なのですが、しかしどうしても必要だというわけではありません」
名前を名乗ると彼はとたんに慇懃な態度を取るようになり、「私」は閣下と呼ばれる男の所に案内されるが、この閣下は拝謁許可証交付を約束しながらも、意味不明の演説をぶちかますのみで、まったく要領を得ない。しかも後日許可証が交付されたにも拘わらず、「私」は「翌日にはそれが無効だという通知」を受けることになるのだった。
役人の対応といい、ほとんど冗談と紙一重の条件といい、この不条理な世界はまったくフランツ・カフカの世界そのものである。カフカの『城』が書かれた年が1922年(マックス・ブロートによる出版は1926年)であることを考えると、カフカの作品にはクビーンのこの作品からの直接的な影響が認められるのである。クビーンもカフカと同じチェコの出身であり、先輩として彼との交流もあったというから、確実なところだ。
私が第一に驚いたのは、このカフカとの相似ということについてだった。カフカの『審判』や『城』に描かれた不条理な世界が、カフカ以前に一人の画家によって小説として書かれていたことが、驚くべきことでないわけがない。私はなぜこの作品をもっと早くに読んでおかなかったのかと、慚愧の思いに駆られてしまうのだった。
私はカフカの世界はまず第一に、夢の世界に通底しているのだと思っている。『城』でKが城へ行こうといくら努力しても、役人たちの不合理な扱いによって阻まれてしまうというストーリーは、我々が夢の中でする体験によく似ている。ある場所に行きたいと思い、そこに到達しようとする努力をいくら繰り返しても、その努力がさまざまな阻害条件によってことごとく挫かれてしまう。しかもその条件というのが、どう考えても道理に沿ったものではないというのが、夢の中で起きることの大きな特徴である。
カフカの描く不条理な世界を、現実の官僚機構のアレゴリーとして読む人もいるが、私にとってはそれは何よりも〝願望充足への希求とその阻害〟として現れる、夢の性格を帯びている。だからこそカフカの作品には衝迫力があり、リアリティがあるのである。
夢は快感原則に支配されるとフロイトはいうが、私にはそんなことは信じられない。夢の中でのどこかへ行きたいとか、何かを食べたいとかいった願望充足への欲求は、必ず阻害される。少なくとも私にとっての夢はそうであり、そうでなく必ず夢の中では願望が充足されるという例を私は聞いたことがない。
夢は快感原則に対して現実が介入してくる場なのであって、単純に快感原則に支配される世界ではない。欲望を禁じるものが超自我だとすれば、超自我とは快感原則を阻害する現実意識である。夢の中でも現実は生きているのである。
ジェラール・ド・ネルヴァルは『オーレリア』の冒頭で「夢は第二の生である」Le Rêve est une seconde vie.といっているが、ネルヴァルがいった意味とは違った意味でも、夢は第二の生であり、第二の現実なのである。現実の生もまた欲望充足とそれを阻害する現実との闘争の場であるならば、夢もまた同じ場所に位置を占めるだろうからである。
カフカの小説のリアリティはそうした事実に根ざしているし、私はカフカをそういう風に読んできた。さらに私はクビーンに関してもそのような読みを強いられることだろう。