韓国がアフガンからの輸送作戦を終了すると発表した。
韓国は、空自機が出撃した24日に「空輸作戦遂行中」と短く発表しただけであるが、本日の報道では390人の救出・輸送を完遂したとされている。輸送作戦では、カタールに退避していた大使館員(情報機関員?)4名がカブールに戻ってタリバン下でも運航可能な複数台のバスを確保して市内から空港に対象者を輸送したとされている。また、諸準備は8月上旬には完成していたともされている。
日本の救出輸送作戦の全容と成果は後日明らかとなって、検証に名を借りた不毛な犯人探しが朝野の耳目を集めることになるのだろうが、国民とりわけ反戦・反軍を主張する人に考えてもらいたい点がある。
一般にシビリアン・コントロール(文民統制)と呼ばれる機能は、最近は語義が明確なポリティカル・コントロール(Political control:政治統制)と呼ばれる。今回の空自機の派出遅れは、紛れもなく政治の怠慢であるように思う。自衛官の安全が確保される場合にのみ対象国の同意を得て派出できると云う法令が足枷となって、隊員安全確保の確認に名を借りた逡巡が最大の原因であろうと推測するが、何故に政府は逡巡したのであろうか。原因はただ一つ、「政治家の保身」で、アフガン人の人命保護より保身の意識が先立つかと云えば「軍(自衛隊)を動かすことに対する国民の忌避感」に過度に忖度したことであると思っている。軍事行動に対する国民の監視・ブレーキは必要であるが、過度に・常時にブレーキを踏み続けることは政治の決断を遅らせることにしか繋がらないことは今回の事例でも明らかである。
日本は偵察衛星も持った・外務省を含む各機関の情報と防衛省の軍事情報も一元化した・情報分析官も育った・近代的な自衛隊も整備した・自衛官の士気も旺盛である、首相官邸を中心とした通信インフラも整備した、にも関わらず救出作戦が列国に出遅れたのは、情報と自衛隊を活用する(できる)政治家/政治組織が育っていなかったことと、人命救助のための軍事行動は容認するという国民感情が育っていなかったことであると思っている。
孫子は「兵は詭道なり」「兵は拙速を聞く(尊ぶ)」「疾きこと風の如く」と説き、貴重な刻を空疎な軍議に費消した「小田原評定」の例もあることを思えば、粗削りであっても時間を重視した作戦の方が、時として巧緻な作戦に勝ることも考慮すべきことのように思える。
今回の輸送作戦対象者の全ては日本国民では無かったが、今回の推移を見る限り、尖閣・先島諸島に対する急迫不正事態に対しても同様の逡巡・遅滞が懸念されることを考えれば、総選挙で選ぶべきは「休業補償の増額」を公約トップに掲げる政党であってならないように思うし、総理も有事にあっては右顧左眄・躊躇なく決断できる人であって欲しいと願うものであるが、それ以上に、今回の輸送作戦の検証を通じて全国民が「軍事行動の何たるか」「危機対処は如何にあるべきか」を学び直すことが必要であると考える。
その視点が抜けていないか?
軍隊を送っていない国の国民やスタッフが危険に晒される可能性は少ないと思うが。
ご指摘を有難うございます。
10年ほど前に韓国軍はアフガンから撤退したと記憶していましたので、その経験が影響したとの視点が抜けていました。改めて調べて見ましたが、韓国は2007年頃に撤兵したように思えますので、官僚組織や参謀部などには資料としての継承があり、今回それを活用したことで円滑に推移したことは否めません。
派兵していない国民などは無事とのご意見については、タリバンは「国内に他国の軍や如何なる施設も認めない」としていることから、派兵の有無と安全は切り離して考える必要があるのではないでしょうか。彼等の選別基準はイスラムか否か、タリバンに忠実か否か、が全てであると思っています。
①今回の派遣は米国からの要請があったからだろう
②日本人の帰国者はすでに撤退していたのではないか(自衛隊機に乗ったのは1名のみ)
ご指摘の通り「人命救助のための軍事行動を容認するという国民感情が育っていなかった」という点はその通りです。
その議論を深める意味で今回の派遣の意思決定過程を明らかにすべきでしょう。
コメントを有難うございます。
自分の想像ですが、米からの要請については、軍事面からわずか搭乗人員100名のC2輸送機の支援を求め、政治的にNATOに日韓を加えて多国籍軍的な性格を持たせる必要もない人道作戦であることから、米の要請は考えられないように思います。
事前の報道では数人のJICA職員がいるとされておりましたので、帰国を希望してカブールに行けたのが1名では無かったのではとも考えられます。
私の知る限りでは、貴方のご意見が正論です。
コメントを有難うございます。
現在、徐々に派遣の経緯等が明らかとなりつつありますので、輸送作戦についての議論が深化することを期待しています。
その際、作戦を「集団的自衛権」に絡めることや、「経費÷輸送人数」で国民の命の値段の多寡を問うことはあってはならないように考えます。