もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

巻きずしと源田実氏

2025年03月01日 | 自白
 先日の朝食のメインは、パンに代わり前日の夕食の残りの巻きずしであった。
 食卓に載せられていた緑茶を見て、コーヒーではどうだろうかと試したが、バカ舌の自分にはコーヒーの方があっていると感じた。
 過去には紅茶とおにぎりが合うというCMもあったし、握り寿司のお供が緑茶となっているのは、渋みや苦みで口中をリフレッシュするのが目的ではないかと考えると、それがコーヒーの苦みであっても一向に構わないように思える。その時の略茶・コーヒー・紅茶の連鎖で、源田実氏の言葉を思い出した。
 その言葉を自分が聞いたのは昭和50年代で、氏の参議院議員3・4期時代と思うが、眼前の氏は年齢に応じた好々爺の風情ではあったものの眼光は写真で見た鋭さで、戦後30年を経た当時でも歴戦の勇士と呼ぶに相応しいものであった。源田氏「英(紅茶)、米(コーヒー)との歴史的関係を考えると、紅茶を飲んでた時の方が国際関係は安定しているので、自分は今でもコーヒーは飲まずに紅茶を愛飲している」という極めて他愛も無いものであったし、そこには禅問答的な政治的蘊蓄は込められていなかったように思う。
 源田氏は、自分がお会いすることができた最高位(海軍大佐)の海軍軍人と思うので、改めて源田氏の略歴を辿ってみた。映画等に登場する源田中佐は、第1航空艦隊の航空甲参謀としてハワイ・ミッドウエー作戦の指導場面が多いので、氏は指揮官型よりも幕僚型的要素が強いとの世評が持たれているが、真骨頂は紫電改を駆使して本土防空に従事した松山(343)航空隊司令時代の戦闘指揮に示されていると思う。軍歴の早い段階で能力を評価されて上層部に引き抜かれたため戦闘機搭乗員としての実戦経験はないものの、源田司令の巧みな統率力による部隊運用と戦意保持は、長らく幕僚としてデスクに縛り付けられた人物とは到底思えないように思える。戦後に343空のOB会は長い間途絶えることなく続き、源田司令も参加を懇請され続けたとされる。一般的であるが、命令側の将校とそれを受ける兵卒側の垣根は高く、指揮官がお義理程度に呼ばれるケースも多いが、源田司令に対しては将に死線を共にした戦友として迎えられたかのように思える。さらには、三島由紀夫・石原慎太郎氏などから戦功よりも人間的魅力についての言及が多いことからも、理想的な指揮官であったことが窺える。
 源田氏の言は多く残されているが、昭和61(1986)年7月の議員引退時、旧海軍勤務が24年だったことから「これ以上やれば海軍に義理がたたない」という言葉に感銘を受ける。自分を育ててくれた海軍への恩顧・愛着、生死を掛けて奉公したものの国家に勝利を届けられなかった軍人の自責、・・・将に万感を籠めた言葉ではないだろうか。
 最後に、源田氏は広島県の加計町出身であった故か、広島カープの熱心なファンだったとされている。
 また、巻き(握り)寿司とコーヒーの取り合わせ、試していただく勇者はいないだろうか。

コレクション考

2025年02月26日 | 自白
 先日亡くなられた森永卓郎氏のコレクター哲学を知った。
 森永氏のコレクションは、少年時代に父親から貰ったミニカーが原点であるらしいが、傍から見れば脈絡・一貫性のないもの、所謂ガラクタと聞いている、
 後年、TV露出の機会を得た森永氏は、機会・人脈を頼りに有名・著名人にサインを頼み、こけしにビート・たけし氏のサインを貰って「ビートこけし」と駄洒落、森永キャラメルの箱にされたキャメロン・ディアスは「キャラメル・ディアス」とご満悦の様子であった。
 コレクションの中には重複した物も多いようで、インタビューアーが「同じ物を複数個持つ不思議さ」を問い質したら、森永氏は「コレクターの心を解ってないネ。本当のコレクターは、集めることが好きなんだよ」と述べておられる。成る程!!。目的は「集めること」だけで、収集品の価値・希少性・一貫性には頓着しないのがコレクターの神髄なのかと合点できる部分がある。そんな氏の哲学の故か、収集品は天文学的な数に及び、遂には1億円以上も掛けて展示室を兼ねた博物館開設を迫られる結果になった。
 森永氏は、ガラクタコレクター人生を全うされて旅立たれたが、収蔵・所蔵品に対する遺族の対応については、よそ事ながら興味を持っている。
 というのも、自分も楽曲コレクターで、収集・収録曲を24時間不眠不休で聴いても1年以上はかかる程になる。楽曲も、演歌に始まりポップス・ロック・ジャズ・レゲエ・ファド・歌謡曲・軍歌・民謡、クラシック・果てには浪曲まで網羅されている。将に森永氏と同様に「手当たり次第に集めることだけが」目的化していたのは疑いも無いところである。
 自分の遺品整理の場を想像すると、先ず処分されるのは絵、次いでCD/楽曲であろう。遺品整理動画のエンドロールが流れる直前のシーンは、粗大ごみ業者を前にして「目ぼしい物は無かったネェ~」という家族の言葉がテロップで大写しされるのは確実である。

ブリッジと第6級賞詞

2025年02月23日 | 自白
 自分は、第6級賞詞受賞という輝かしい?経歴を有している。
 時間的制約を受ける艦内娯楽の代表はトランプであり、士官室ではコントラクトブリッジ(以後。、コントラ)が行なわれる場合が多い。
 かっては海軍士官のたしなみと半強制されたコントラも、現役の最後頃には見かけることも少なくなっていた。幹部昇任後に初めて乗艦した護衛艦では、コントラ好きの艦長のもと多くの幹部が競技していた。乗艦早々の昼休みに召集され、ほんの数分間のルール説明の後、実戦での特訓が始まった。全く要領を得ない自分には、叱責の声雨アラレで昼休みどころか昼地獄の有様が数日間続いた。しかしながら記憶力に難あるのか、一向に上達することは無かったが、それでも相手からは全幅の信頼は得られないものの、協議参加が認められる程度にまではなったと思っている。こんな叱責満載の地獄絵図が若年幹部から嫌われるのか、歳を追うごとにコントラは士官室から姿を消したようにも思われる。閑話休題。
 夕食後は暇が多い補給艦では、幸いにしてコントラができる者が多く、派米訓練やカンボディアPKO時には楽しむことができたが、金を賭けないこともあって、ギャンブル好きの自分には今一つ充足感が無いし、戦績を誇れる物証も無い。そんな訳で「第6級賞詞」の創設を試みた。
 自衛隊には1級~5級までの賞詞があり、それぞれに十干の甲・乙・丙・丁・戊を冠した識別番号が付されているので、6級賞詞は己(き)を付して尤もらしく装い、賞詞には表彰者の職印が押印されるが、流石に艦長職印の使用は憚られるので箔をつけるために艦長の私印を押させて貰うことに漕ぎつけた。
 受賞条件は、コントラ通算でグランドスラム10回&スモールスラム20回獲得とした。13組の札を取りあうコントラでは13組全部獲得のグランドスラム、相手に1組しか与えないスモールスラム(何故か海自では”リットン”と呼ぶ)であれば、滅多にはできないもので、受賞条件を2年程度の乗艦期間でクリアするのは相当に困難なものである。また、表彰はコントラと全く関係の無い幹部まで士官室に呼び集めて表彰式を執り行った。自分の在任中、6級賞詞を獲得したのは、艦長と自分だけであったが、その後は・今はどうなっているのだろうか。
 引っ越しのどさくさと終活の結果、自己満足の域を出ない6級賞詞賞状は保存の対象とは認められずに泣く泣く破棄したが、悔いの残る出来事であった。
 自分が練った表彰状文言「貴殿の透徹した戦術眼と旺盛な敢闘精神は他の隊員の範とするに足るものと認め 茲に表彰する」・・コントラよ、永遠に。


目出度さも

2024年12月30日 | 自白

 貧富・貴賤の別なく時間だけは平等で、自分にも暮が来て・新年が訪れようとしている。
 晩年になって漸く安住の地と妻子に恵まれた小林一茶は諦観と満足の狭間で「目出度さもちう位也おらが春」と詠んだ。
 さて、自分は何と詠めば良いのかと考えたが、自分の才能と人間性が世間水準に遠く及ばないという諦観.達観は数十年前に持ったが、身過ぎでは終の棲家が有り、邪険ではあるが妻がいて、終末の面倒見を過度には期待できないものの子供がいて、お年玉の増額を虎視眈々と策動する孫がいての境遇であれば、「目出度さは最低ラインかおらが春」とでもするのが適当であるように思う。

 これから、子供に引率されての「コストコ買い出し」に同道するよう命じられている。
 世間並みに忙しいことを演出するために、本ブログは明日より正月休みとさせて頂きます。


恩賜の煙草の思い出

2024年12月23日 | 自白

 恩賜の煙草に関して、懐かしい思い出があるが、30年以上も経過しているので時効であろうと思い披露する。

 現在はどうなっているのか知る由もないが、かっては海上自衛隊の高級幹部が年に1度、東京に集合して会議を持つことが恒例であった。海軍大佐であられた高松宮殿下は、参集した高級幹部を招いて懇談されるのを例とし、楽しみにもされていたそうで、散会の際には吸い口に菊の御紋章があしらわれた紙巻きたばこ(恩賜の煙草)を手交されたと聞いている。
 自分が幕僚であった司令部の副官室で、高松宮殿下が下賜されたその貴重な恩賜の煙草を発見した。副官室付きの女性職員に質すと、既に喫煙者が激減していたために1年以上も棚に仕舞われたままとのことであった。ダメもとで「1本頂戴ョ」とねだったら、案に相違して「いいわョ」との即答。有難く頂戴して副官室の裏に隠れて至福の一服。
 以後、指揮官への報告の度に副官室に立ち寄っては「1本頂戴」・「どうぞ」の繰り返し、最後の頃には厚かましくも「1本貰うネ」になっていた。そんな不謹慎な幕僚は自分の他にはいなかったらしいが、2・3箱あった恩賜の煙草は2か月ほどで煙となってしまった。
 半年ほど経って、指揮官に報告を済ませて退出しようとした際、指揮官がニヤリと笑って「オイ。恩賜の煙草は美味かったか」の一言。脇の下にドット冷や汗、覚悟を決めて直立不動、「大変美味しかったです」。「そうか」。
 副官室に飛び込んで尋ねたら「お客さんに渡すと云われたので、貴方が全部吸いましたと申し上げました」とのこと。
 人に自慢できることは何もないが、自分と同レベルのランク・ポジションの人間で、恩賜の煙草を復数箱も頂いた人間は、そう多くはないのではと思っている。

 後日、指揮官から聞いたところでは、既に体調を崩されていた殿下は、散会に際して「自分が死んだら、皇室と海上自衛隊の縁も切れるなァ」と寂しげに漏らされたとのことであった。自分が煙にしてしまった恩賜の煙草は、時期的に考えると高松宮殿下が最後に下賜されたものだったのかも知れない。
 殿下は下賜した恩賜の煙草が、初老の下級幹部によって煙とされたとは想像すらされないであろうが。