もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

目出度さも

2024年12月30日 | 自白

 貧富・貴賤の別なく時間だけは平等で、自分にも暮が来て・新年が訪れようとしている。
 晩年になって漸く安住の地と妻子に恵まれた小林一茶は諦観と満足の狭間で「目出度さもちう位也おらが春」と詠んだ。
 さて、自分は何と詠めば良いのかと考えたが、自分の才能と人間性が世間水準に遠く及ばないという諦観.達観は数十年前に持ったが、身過ぎでは終の棲家が有り、邪険ではあるが妻がいて、終末の面倒見を過度には期待できないものの子供がいて、お年玉の増額を虎視眈々と策動する孫がいての境遇であれば、「目出度さは最低ラインかおらが春」とでもするのが適当であるように思う。

 これから、子供に引率されての「コストコ買い出し」に同道するよう命じられている。
 世間並みに忙しいことを演出するために、本ブログは明日より正月休みとさせて頂きます。


恩賜の煙草の思い出

2024年12月23日 | 自白

 恩賜の煙草に関して、懐かしい思い出があるが、30年以上も経過しているので時効であろうと思い披露する。

 現在はどうなっているのか知る由もないが、かっては海上自衛隊の高級幹部が年に1度、東京に集合して会議を持つことが恒例であった。海軍大佐であられた高松宮殿下は、参集した高級幹部を招いて懇談されるのを例とし、楽しみにもされていたそうで、散会の際には吸い口に菊の御紋章があしらわれた紙巻きたばこ(恩賜の煙草)を手交されたと聞いている。
 自分が幕僚であった司令部の副官室で、高松宮殿下が下賜されたその貴重な恩賜の煙草を発見した。副官室付きの女性職員に質すと、既に喫煙者が激減していたために1年以上も棚に仕舞われたままとのことであった。ダメもとで「1本頂戴ョ」とねだったら、案に相違して「いいわョ」との即答。有難く頂戴して副官室の裏に隠れて至福の一服。
 以後、指揮官への報告の度に副官室に立ち寄っては「1本頂戴」・「どうぞ」の繰り返し、最後の頃には厚かましくも「1本貰うネ」になっていた。そんな不謹慎な幕僚は自分の他にはいなかったらしいが、2・3箱あった恩賜の煙草は2か月ほどで煙となってしまった。
 半年ほど経って、指揮官に報告を済ませて退出しようとした際、指揮官がニヤリと笑って「オイ。恩賜の煙草は美味かったか」の一言。脇の下にドット冷や汗、覚悟を決めて直立不動、「大変美味しかったです」。「そうか」。
 副官室に飛び込んで尋ねたら「お客さんに渡すと云われたので、貴方が全部吸いましたと申し上げました」とのこと。
 人に自慢できることは何もないが、自分と同レベルのランク・ポジションの人間で、恩賜の煙草を復数箱も頂いた人間は、そう多くはないのではと思っている。

 後日、指揮官から聞いたところでは、既に体調を崩されていた殿下は、散会に際して「自分が死んだら、皇室と海上自衛隊の縁も切れるなァ」と寂しげに漏らされたとのことであった。自分が煙にしてしまった恩賜の煙草は、時期的に考えると高松宮殿下が最後に下賜されたものだったのかも知れない。
 殿下は下賜した恩賜の煙草が、初老の下級幹部によって煙とされたとは想像すらされないであろうが。


”カガツ”考

2024年12月17日 | 自白

 当地に越してきて、期待していた一つ自然薯に出会った。

 以前に暮らしていた関東では、山梨や伊豆方面に遠出しなければ先ず入手できなかった自然薯であるが、流石に市内では出会えないものの僅か数キロ程度郊外の道の駅にはそこそこに並んでいる。
 今回購入したのは、最大径5cm・長さ50cmでお値段は2,500円であった。翌日、山間の農家の直売所では同じくらいのものを1,500円で販売していたので、季節によって比較的容易に入手できるようである。自然薯とは表示されているものの、落下傘状の頭部が切り落とされていたことから見て、天然の自然薯を畑で栽培したものであるかもしれない。とは云うものの、件の自然薯で都合4回・娘夫婦・孫を含めて述べ20人弱堪能し得たので、スーパーの大和芋とは比べ物にならない程の粘り気である。
 自分が育った田舎でも、おろした自然薯に出汁を加えながらすり鉢で伸ばすのは男の役目であり、我が家でも当然のように自分が伸ばし役である。精を出している途中で、フト「そういえば、すり鉢を”カガツ”と呼んでいたなァ」と思い出して、同郷ではあるが距離的には幾分離れた生まれで数歳年下の妻に聞くと「知らない。すり鉢ヨ」との御託宣であったので、カガツは落人部落的に極めて局部に生き残り、かつ急速に失われた言葉であるかも知れない。ネットで調べると、カガツは《すりばち(擂鉢)の事、中四国周辺の方言。すりこ鉢、カガツともいい擂盆(らいばん)などとも呼ぶ。 すりこ木はすり木(磨粉木・摺粉木・擂槌)と呼ぶ》とされていた。
 自分は、朝鮮(北)からの引揚げ者であり、日本に辿り着いたのは4歳の事と聞いている。父ちゃん・母ちゃんが主流である周りに比べて我が家ではお父さん・お母さんで、漸く言葉を覚え始めた自分には内外のギャップは驚きの毎日で、友人の家で出会った”カガツ”もそのうちの一つである。言語学的に古い京言葉が残っているとされる在所のこと、"カガツ"もその一つであるのかも知れないが、果たしてどれ程の地域で使われていたのだろうか。

 痴呆症では、新しい記憶から消えてゆき幼少期の記憶は最後に消えるらしいので、時折に古い記憶が蘇るのは、痴呆症の初期状態であるのかも、痴呆症の前兆かもとは思うものの、こればかりは神の御心にお任せするしかないと覚悟を新たにした自然薯・カガツの一幕である。

 


「ダンサー」デビュー

2024年12月14日 | 自白

 妻は趣味で社交ダンスをしている。
 生徒確保の一環であろうと邪推しているが、ダンス教室の講師から「夫婦でされている方も多いので、ご主人も連れてきたら」と声を掛けられるらしいが、生来のリズム音痴に加え猫背に固まった姿勢ではと固辞している。
 妻の趣味が長続きしていることに些かの敬意とからかいを込めて、時折に「ダンサー」との敬称で呼んでいる。

 そんな自分が、先日「ダンサー」デビューを果たした。ここまで書けば「ハハァー」とお気付きの人も多いだろうが、デビューしたのは「段差ー」である。「段差ー」の顛末は、短い階段を降り切ったところに更に5センチほどの段差があったのに気付かず、前のめりに転んでしまった。若い時には簡単にリカバーできたであろうし、足元を注意深く見ておれば何程のことも無い段差であるが、とっさに反応できなかったものである。
 自分も「段差―」かと自嘲したが、このギャグは使えるゾ?と思って得意満面に妻子の前で披露したら、案に相違して微苦笑の首尾、より以上の御小言を頂戴してしまった。
 ”段差に躓いて骨折したり寝たきりになる”との警鐘には、それこそ耳に胼胝ができるほどに接していたが、成る程と身に沁みた一事であった。思うに、衰えを認めたくない脳(意識)が身体的な衰えをカバーすべき注意力や視覚信号を拒絶するためであろうか、点滅する青信号で横断歩道に踏み出したものの途中で赤信号に変わり立往生する同世代人を目撃したこともある。

 「寿」を付ける気分ではないが、長寿社会にあっても傘寿を過ぎれば確実に老人である。洟垂れ小僧時には、60歳前後のご隠居様からの叱責に「クソ爺!」と応じていたが、かのご隠居様よりも長生きしている。青少年が穏健になった今、面と向かって「クソ爺」呼ばわりされることは無いが、彼等にしても衰えを自覚しない老人に対しては心中に同様の感覚を持っているだろうことは想像に難くない。
 「目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせず(by時代遅れー河島英五)」で生きたいものである。
 意気軒昂な老人という形容が誉め言葉とされるが、内実は「意気(だけ)軒昂」の婉曲表現ではと反省した一事であった。


ブログの再々開と宇多田ヒカル

2024年12月07日 | 自白

 再開したにも拘わらず、短期間で中断していたブログを再々開することにしました。

 契機とするのは、友人からの勧め(生存確認?)も大きいのですが、ルーティーンの変化(省略)が痴呆症の進行に大きく影響するのでは?と思ったからです。
 ルーティーンの省略が記憶力の減退に影響するのか、はたまた記憶力の減退がルーティーンの省略を引き起こすのかは判然としませんが、記憶力維持のためには自分にプレッシャーをかける必要があると考えました。
 先日、愚妻から「ホラ、藤圭子の娘は・・・」と話しかけられた際、彼女の風貌・ヒット曲「オートマチック」・松本人志氏が「天井の低い場所で」と評したダンス映像・結婚・離婚・アメリカ挑戦・・・さらには藤圭子氏のパチンコ・・と矢継ぎ早に浮かぶものの肝心の名前が出て来ない。これまでにも名前が出て来ない場合も5分間程度で思い出せていたが、宇多田ヒカルさんの名前はどうしても出て来ず、あきらめてPCゲームを始めたら30分以上経過後に、何の脈絡もなしに唐突に思い出した。
 生活する上で宇多田さんの名前は必須事項ではないだろうが、このことは病院の予約を、お絵描きクラブの日時を、道順を、・・・と拡大する予兆ではないかと恐れ、何とか記憶力の減退を食い止める・または進行を緩やかにするためには、文章を綴ることで思考・考察・表現に苦闘して僅かであっても右脳を遣うことが良いのではと考えた次第です。

 明日は開戦の日。
 自分の再スタートには格好の日であるかもしれません。