もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

誤報と孫引き

2025年01月31日 | 報道
 週刊文春が中居氏報道の一部が誤報であったと訂正した。
 中居氏問題自体と誤報の詳細にについては関心がないが、ネット報道などを参考にすると、中井氏の性加害の発端にフジテレビ社員が関与しているとする部分であるらしい。文春側は、誤報は第1報のみで次報以降は修正しているとしているが、旬日に亘るフジテレビ叩きは第1報を元に為されていることを思えば、誤報の申告が遅すぎると云わざるを得ないように思う。
 数日前のブログで「孫引き」の戒めを書いたが、フジテレビの記者会見における参加記者は明らかに第1報を事実として認識し、フジテレビ側が事件への関与を再三否定しても聞く耳を持たないという展開であったとされる。
 このことを総覧すれば、「主犯」を文春の誤報とするのは当然として、取材能力を持つジャーナリストが追加・裏付け取材を為すことも無く文春記事の孫引きに奔ったことを「従犯以上の共同正犯」とすべき様に思う。
 かって当直幕僚として立直中に、他部隊の航空機救難事案に遭遇した。自分の属する隷下艦艇が付近を航行中であったので、第1報を受けて当該艦艇にその場に待機することを命じる電報を起案し発信したが、次報以降の展開から隷下艦艇が不要であることが判明し、待機を解除する訂正電報を起案した。持ち回りの合議では初動判断が過剰であったとの指摘を受けつつ決済を得る段階になった。指揮官は海自内でも作戦の至宝と評される方であったので、さぞ叱責も峻厳だろうと覚悟して報告したところ暗に相違して穏やかに決済され、「第1報に誤報あり・誤報を恐れるな」と述べられたのみであった。
 それ以上の説明は為されなかったが、自分なりに「第1報を無視せず動け。しかしながら誤報であった場合の訂正・軌道修正に逡巡するな」であろうと理解している。以後戦史とも呼べない戦記物を読むと、失敗の多くが第1報の無視又は軽視、自分の初動処置に固執した結果であることを知った。
 時代を彩った文春砲であるが、松本・中居・フジテレビと些かに照準がずれて着弾している感が否めない。加えて「孫引きジャーナリズム」も問題視される状況となった今、週刊誌・新聞の報じるモリカケ疑惑を種モトとして振りかざし、安倍氏と昭恵夫人を追及したものの何一つ得られることが無かった立民議員、今次国会では週刊誌の読み聞かせは無いと思いたいが。如何に。

空自音楽会の中止に思う

2025年01月30日 | 防衛
 那覇市内の小学校で予定されていたPTA主催の空自音楽隊の演奏会が県教組織支部の抗議によって中止されたと報じられた。
 抗議は「教育の中立性を損なう」や「軍事組織に対して否定的な感情を抱く家庭が少なくない」等を挙げているが、教組自体の左傾や諸々の家庭の総和であるPTAが計画した音楽会であることを思えば、論拠を欠くものに思われる。
 沖縄県の市長からオール沖縄系が全滅したことによる焦燥感によるものであるかもしれないが、徐々に攻撃対象を増やす遣り方は中国共産党や韓国左派の常套であり、共産党の統一戦術であるのかもと邪推している。閑話休題
 地上戦を経験している沖縄県を除いて、反戦・反軍は如何にして伝播したのかを考えるが、あくまでまで自分の限られた経験と独善である。
 自分が高校生であった昭和30年代、すなわち戦争(戦闘)経験者が社会の中核を占めていた頃は、伴淳三郎主演の映画「二等兵物語シリーズ」がヒットしていた。観客には従軍経験者層も多かったが、映画を楽しんでそこには軍への拒否反応などは感じ取れなかった。今にして思えば、国家に青春を奉げた当時を懐かしむクラス会的雰囲気ではなかったであろうか。
 1959(昭和34)年、松竹映画「人間の条件」6部作が順次公開されて以降、徐々に戦争・軍人=悪の図式が出来上がって、娯楽映画でも主人公(国民)=被害者的な作品しか作られなくなったように思っている。
 このことは、戦争経験者の減少と戦後教育で戦争を単なる知識と観念的にしか捉えられない世代の発言力が増していくことと反比例的相関にあるように思える。
 終戦以降80年、反軍・反戦・反日本帝国を標榜する左派が有権者の選択で政権の座にあったのは、片山(10か月)、細川・羽田・村山(2年9か月)、鳩山・菅・野田(3年1ヶ月)で、合計しても6年半にしかならない。加えて、それらの何れもが何らかの混乱や国益損傷を引き起こしてさえいるのに拘わらず、マス・メディアはおろかエンタメでさえ反戦・反軍が日本の国是であると喧伝するかの論調・作品は敵基地攻撃能力整備を許容する世間(有権者の投票行動)とは聊かに乖離しているようにさえ感じる。
(参考) 人間の条件(原作:五味川純平、監督:小林正樹、脚本:松山善三・小林正樹、出演:仲代達矢・新珠三千代・佐田啓二)。ネットでは松竹映画とされているが、自分はこれまで新興の新東宝が社運を賭けて制作したものと思っていた。

防衛記念賞に思う

2025年01月29日 | 自衛隊
 昨日の産経新聞正論に掲載された櫻田淳(東洋学園大教授)の「自衛官の処遇と名誉の階梯」を読んだ。
 氏は、刀伊入寇の論功行賞に対する藤原実資の【敵を撃退した者に、褒賞を与えなば、この先に奮戦する者はいなくなるだろう】との言を冒頭に掲げて論を展開されている。
 さらに自衛隊員の功績・経歴を示す防衛功労賞(特別、1~5級)、防衛記念賞(48種類)については、授与の根拠が自衛隊法施行令であり内閣府賞勲局所管の行う叙勲とは別であることも紹介し、帝国軍人への位階勲等の再現までは望むものではないが、何らかの「名誉の階梯制度」の創設を提言されておられる。
 改めて調べると、防衛功労賞については退官後も所持・着用や遺族への継承が許されているが、防衛記念賞については制服とともに退官を機に所持・着用することは許されない。このことから、防衛記念賞創設時から海自では「グリコのおまけ」と評されていた。
 自分が現役時にあっては記念賞の種類も少なく合計で7個の記念賞にとどまったが、死装束のために本来は所持すべきでない制服に飾って保管しているものの、家族は何のことやら分からないだろうと思っているし、理解して欲しいとも思っていない。それらを理解して貰うには、一般社会とは異なる組織のあれこれや評価のあれこれを説明する必要があって億劫極まりないので、密かな自己満足に依る他ない。戦争(戦闘)経験者の児孫から「生前に父祖は戦争(戦闘)経験を話すことは無かった」と語られることを耳にすることが多いが、父祖にしてみれば軍隊内における軍人の喜怒哀楽や評価が一般社会のそれとは別で、話しても到底理解できないだろうと思っていたのではないだろうかと思っている。
 残念なこととに、刀伊の入寇においても論功行賞に預かったのは、都で指揮を執った者と国家安寧を祈祷した寺社だけであったとされるが、現在の世情を考えれば軍功に対する褒章にあっても同様のことが再現される可能性は十分であると悲観している。
 先ごろ、トム・クルーズ氏が民間人に与えられる米海軍最高の勲章を受章したことが報じられたが、氏が謝絶した報道もないことから受賞を限りない名誉と捉えているのではないだろうか。

橘大隊長奮戦記

2025年01月28日 | 歴史
 小学生の頃、図書室の隅で橘大隊長奮戦記という冊子を読んだ記憶がある。長じて静岡で勤務していた時に、陸自板妻駐屯地で橘大隊長の銅像を見かけた。昨日のブログ作成の過程で橘神社の存在を知るとともに、名前が「周太」であることを初めて知った。
 小学生以来70年の時を経てであるが、橘周太氏とは?とWikipediaで調べてみた。曰く《慶応元(1865)年現在の雲仙市生まれ、明治20年陸軍士官学校卒業、東宮武官、歩兵第36連隊中隊長、名古屋陸軍地方幼年学校長などを歴任し、明治37(1904)年2月9日の日露戦争開戦にあたっては新設の第2軍管理部長、同年8月11日に歩兵第34連隊第1大隊長に転出、8月31日の遼陽の戦いで戦死し同日付で陸軍歩兵中佐に特進、勲四等旭日小綬章及び功四級金鵄勲章を賜わり、以後軍神として尊崇される。官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級》と書かれていた。
 戦死に至る奮戦の詳細は未だ不明ながら、戦死が大隊長拝命後わずか20日であることを思えば、指揮下の各中隊長の能力や大隊の戦闘力も十分に把握できていない状況下で金鵄勲章を賜るほどの奮戦指揮を成し遂げられたことに大いなる尊敬を奉げるものである。
 補給艦乗艦中に雲仙普賢岳噴火対応の待機を命じられた。事前調査として橘湾を事前偵察したが、この橘湾は元々「千々石灘・千々石湾」と呼ばれていたものを、1919(大正8)年の橘中佐銅像建立時に橘湾と改称するよう申請し、海図作成の海軍水路部が正式に橘湾と記載するようになったものであることも知った。
 さらにWikipediaには、《橘中佐は漢詩を良くし名古屋陸軍幼年学校校長時代は自ら教壇に立って漢文を弁ずることもある教育熱心な軍人で》とも書かれ、人物紹介欄には陸軍軍人・漢学者と紹介されるほど文武両道に秀でた人物であったらしく思える。
 橘大隊の奮戦の詳細以外は小学生以来の疑問の一部を理解し得たが、銅像拝観・橘湾航海を思えば、橘中佐は自分の経歴とも幾分に交差していることを知った1日であった。

アメリカ湾改称に伴って

2025年01月27日 | 歴史
 トランプ大統領は就任後、矢継ぎ早の大統領令を発出している。1期目の就任直後には6本の大統領令に署名したと記憶しているが、今期は「矢継ぎ早」と報じられるのみで本数の詳細までは分からない。
 その中の一つに、メキシコ湾をアメリカ湾に改称、マッキンリー山の名称を復活させるがある。
 メキシコ湾の改称については、世界的な認知が必要であることから韓国の日本海⇒東海と同様に定着することは無いように思えるが、マッキンリー山の復活については国内問題であり地図業者も喜んでいるのではないだろうか。
 マッキンリーの名称は第25代大統領ウイリアム・マッキンリーに因んでいるが、かねてからトランプ氏はマッキンリー氏の保護主義的な政策とキューバ、プエルトリコ、フィリピン、グアムの支配権を獲得した実績を尊敬するとしていた。(カナダ、・グリーンランド取得のお手本?)
 アメリカに限らず、自国の歴史上の偉人を称えるために地名等を変更するケースは多いが、後世の評価の変化に伴っての何等かの紆余曲折を辿るケースも多いように見受けられる。
 アメリカの10年後を辿るとされる日本ではどうだろうかと考えたが、思いつくのは軍人を祀る神社の運命であるので、ネットで調べてみると、明治聖徳記念学会紀要がヒットした。同誌を引用すると
〇大村神社(大村益次郎):山口市
〇南洲神社(西郷隆盛):鹿児島市、酒田市、都城市、沖永良部島
〇西郷神社(西郷従道):大田原市
〇乃木神社(乃木希典):東京赤坂、函館市、那須市、京都伏見、下関市、善通寺市
〇児玉神社(児玉源太郎):藤沢市、周南市
〇永山神社(永山武四郎):旭川市
〇橘神社(橘周太):雲仙市
〇巨杉神社(山下奉文):高知県大豊町
〇東郷神社(東郷平八郎):東京渋谷区、飯能市、福津市
〇広瀬神社(広瀬武夫):竹田市
(注:上記は、神社庁の資料に依るとされ、これ以外にも個人・有志が建立したものが全国に多数あると付記されている)
 これほどの神社が、大東亜戦争終結後のGHQ占領政策と軍人否定の風潮にも拘わらずに存在しているのは、鬼籍に入って神となった魂に罪は無いという日本人独特の”日本教”に基づくものかとも考えるが、占領時の武装解除に当って、戦艦三笠保存をおそるおそるGHQに打診した際、「保存は当然じゃないか」と云われた故事を思えば、軍人の顕彰に対するアメリカ人の一般的な考えをも知ることができるようにも思える。なお、列挙した神社の中には昭和40年代に建立されたものもあって、日本人の精神構造の深淵を窺い知れる様にも思える。
 アメリカ湾への改称騒動、日本の軍人顕彰神社への影響や如何に。