本日の産経抄で、自分の理解が間違っていたことを知った。
「ペンは剣より強し」は、言論は暴力的な手段に勝ると理解していたし、ウィキペディアの解説にも「独立した報道機関などの思考・言論・著述・情報の伝達は、直接的な暴力よりも人々に影響力がある換喩(比喩)]」と解説されている。同様の考えは古くから云い慣らされていたらしいが、広く人口に膾炙したのは英国の作家エドワード・ブルワー=リットンが1839年に発表した歴史劇のなかで、17世紀のフランス王国の宰相リシュリューに語らせた台詞からとされている。台詞は武器を以て脅迫する部下に対して自分が起草した命令書を示しながら「偉大(強権)な人間の統治のもとではペンは剣よりも強し」と武器を捨てるよう諭している。有体に言えば、「強権国家では権力者のペンがサインする命令書の方が圧倒的に強い。無駄な抵抗は止めよ」と述べているのである。
台詞の前段を省略した「ペンは剣より強し」は、朝日新聞の組織暴力撲滅キャンペーンに対する暴力団の犯行とされる神戸支局襲撃事件に際して盛んに用いられたこともあって、自分の中では言論の優位を説くものとなっていたが、実は香港に対する中国共産党の強権・人権抑圧について習近平主席が使用することこそ相応しい言葉であるように思える。閑話休題。
古人の有名な言の一部を切り取って大衆の喝さいを受けた例として、美濃部亮吉元都知事がゴミ焼却場建設反対者に対して「一人でも反対する人がいれば橋を架けない」と発言して建設計画を撤回したことが思い出される。発言当時は少数の反対者に寄り添うものとされていたが、後年この言葉はフランスのフランツ・ファノンの言葉を引用したもので、後段には「泳いで渡るか船で渡る自由がある」と続いていることが明らかとなった。学者であった美濃部氏は当然に全文を知った上で都合の良い部分のみ引用したものであろうことから、真意は「反対者がいるのでゴミ焼却場は建てない。ごみ処分が必要な人は不法投棄するか焼却処分すれば良い。ご勝手に」であったと解されている。
発言の前後の脈略を無視して、その一部・一節を自説誘導の手段としてセンセーショナルに報道する手法は現在も行われている。特に朝・毎新聞やテレ朝・TBSに顕著とされ、福島原発の吉田発言、麻生財相の老後資金2千万円発言などは好例であるように思える。そのことに対する抗議や批判に対して各社は、締め切り時間、記者の読解能力不足、紙面・放送時間の制約上の「編集権」なる新設を掲げるとともに「報道しない自由」と云う珍説を開陳して自社の正当性を主張している。さらに憂うべきは、一社のスクープ的報道について他のメディアが検証することもなく「バスに乗り遅れるな」と一斉に追随することで、一社のフェイクが瞬く間に真実となって津々浦々にまで拡散・伝播することであると思う。
情報化社会に生きる我々読者・視聴者は、メディアの一過性の熱情に引き込まれない賢さを以て冷静な民意を形作ることが求められているように思う。