79年目の終戦記念日
さすがに今となっては「終戦」「戦争」というものは“平和ボケ”という言葉があるように、今の社会・生活からするとあまりに遠い過去のもので、もはや一種のセレモニーみたいな行事になっちゃっているのも歪めない。
ただ今の生活の根底になる、出発点になる過去の大事な出来事であり、ひとつの区切りとして将来にわたって残すべきものではあると思います。
実体験として“その日”を経験している人もいれば、経験していなくてもその人にとっての特別なセレモニーとして意識する人もいるなかで
大多数の人はこよみのうえでの「終戦記念日」としてだけを認識しており、「戦争」「終戦」という具体的な出来事という認識は稀有な「言葉」としてでしかないのかもしれません(ある意味一種のタブーかもしれませんね)
それでも毎年やってくる八月十五日という日を今後どのような形で将来にわたり残すか、認識させるか、この前の原爆同様に“その日”の実体験者がいなくなった時にはたして「教訓」として受け継がれるものなのか・・・
直接に今の社会生活に影響がないことで、ただのメモリアルデイとしてのセレモニーで終わらしちゃってよいものか…は、将来の皆様に託すしかないのではないかと思います。
そんな希薄な意識のなかでも、この日は「戦争」という過去の禍根をあらためてだれしもが認識して、将来に向けてメッセージとして「不戦の誓い」を立てる日であることには間違いないし、
これを受け継がれなければならない義務を背負う事は間違いない、そんな日でもある。
79年目の終戦記念日はいつのまにか終わり過ぎようとしています。
さすがに今となっては「終戦」「戦争」というものは“平和ボケ”という言葉があるように、今の社会・生活からするとあまりに遠い過去のもので、もはや一種のセレモニーみたいな行事になっちゃっているのも歪めない。
ただ今の生活の根底になる、出発点になる過去の大事な出来事であり、ひとつの区切りとして将来にわたって残すべきものではあると思います。
実体験として“その日”を経験している人もいれば、経験していなくてもその人にとっての特別なセレモニーとして意識する人もいるなかで
大多数の人はこよみのうえでの「終戦記念日」としてだけを認識しており、「戦争」「終戦」という具体的な出来事という認識は稀有な「言葉」としてでしかないのかもしれません(ある意味一種のタブーかもしれませんね)
それでも毎年やってくる八月十五日という日を今後どのような形で将来にわたり残すか、認識させるか、この前の原爆同様に“その日”の実体験者がいなくなった時にはたして「教訓」として受け継がれるものなのか・・・
直接に今の社会生活に影響がないことで、ただのメモリアルデイとしてのセレモニーで終わらしちゃってよいものか…は、将来の皆様に託すしかないのではないかと思います。
そんな希薄な意識のなかでも、この日は「戦争」という過去の禍根をあらためてだれしもが認識して、将来に向けてメッセージとして「不戦の誓い」を立てる日であることには間違いないし、
これを受け継がれなければならない義務を背負う事は間違いない、そんな日でもある。
79年目の終戦記念日はいつのまにか終わり過ぎようとしています。
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