文芸評論家・作家の高橋千劔破(たかはしちはや)氏が「野鳥の会」の会報に載せた「皇子の名にもなった粗忽者」という記事を読んだ。
彼は、人物往来社に勤務し、『歴史読本』の編集局長等を経て1996年に退社。2001年に「花鳥風月の日本史」で尾崎秀樹記念・大衆
文学研究賞研究・考証部門受賞している。
その記事の内容は、“日本最大の古墳、通称「仁徳陵」、「百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)」ともいわれるが、考古学者は、
「大山古墳」あるいは「ミソサザイ古墳」と呼ぶ。なぜミソサザイなのかというと、「仁徳天皇」は、後世の尊称で本来の名前は、日本書紀
によれば「大鷦鷯天皇(おおざきのすめらみこと)」古事記では、「大雀命(おおざきのみこと)」。「サザキ」とはミソサザイの古名。
日本書紀の大鷦鷯天皇の項に「誉田(ほんだ)天皇(応神天皇)」と大臣の「武内宿禰(たけのうちのすくね)」の家で同じ日に男子が生まれた。
天皇家には産屋には木菟(ミミズク)が飛ぶ込み、大臣家の産屋には鷦鷯(さざき)が飛び込んだ。
翌日、この不思議な話を語り合った二人は、瑞兆に違いないとそれぞれの鳥の名を取り代えて子どもの名前にした。天皇の子は、大鷦鷯皇子、
大臣の子は木菟宿禰。
そして、また、ミソサザイは、人の股を潜ったり懐に飛び込んだりとその動作からあわて者で剽軽なイメージがある。江戸時代、盗人質の
隠語で「みそさざい」というのは粗忽者のこと。”
ミソサザイを撮影したこの日、じっくり粗忽者ぶりを観察した。
ミソサザイの羽の色は全体が濃い茶褐色で白い斑点が混ざっているだけと思っていたが、拡大してみると群青色の部分があった。
彼は、人物往来社に勤務し、『歴史読本』の編集局長等を経て1996年に退社。2001年に「花鳥風月の日本史」で尾崎秀樹記念・大衆
文学研究賞研究・考証部門受賞している。
その記事の内容は、“日本最大の古墳、通称「仁徳陵」、「百舌鳥耳原中陵(もずみみはらなかのみささぎ)」ともいわれるが、考古学者は、
「大山古墳」あるいは「ミソサザイ古墳」と呼ぶ。なぜミソサザイなのかというと、「仁徳天皇」は、後世の尊称で本来の名前は、日本書紀
によれば「大鷦鷯天皇(おおざきのすめらみこと)」古事記では、「大雀命(おおざきのみこと)」。「サザキ」とはミソサザイの古名。
日本書紀の大鷦鷯天皇の項に「誉田(ほんだ)天皇(応神天皇)」と大臣の「武内宿禰(たけのうちのすくね)」の家で同じ日に男子が生まれた。
天皇家には産屋には木菟(ミミズク)が飛ぶ込み、大臣家の産屋には鷦鷯(さざき)が飛び込んだ。
翌日、この不思議な話を語り合った二人は、瑞兆に違いないとそれぞれの鳥の名を取り代えて子どもの名前にした。天皇の子は、大鷦鷯皇子、
大臣の子は木菟宿禰。
そして、また、ミソサザイは、人の股を潜ったり懐に飛び込んだりとその動作からあわて者で剽軽なイメージがある。江戸時代、盗人質の
隠語で「みそさざい」というのは粗忽者のこと。”
ミソサザイを撮影したこの日、じっくり粗忽者ぶりを観察した。
ミソサザイの羽の色は全体が濃い茶褐色で白い斑点が混ざっているだけと思っていたが、拡大してみると群青色の部分があった。