「熊本城公式ホームページ」によると
”西南戦争薩軍総攻撃の3日前、明治10年(1877年)2月19日午前11時頃、御天守御廊下付近から出火し、天守閣と本丸御殿(ほんまるごてん)一帯が全焼しました。原因は台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台(ちんだい)自ら火を付けたとする「自焼説」がありますが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎(こだまげんたろう)が火を付けた、という説が現在では有力になりつつあります。”
現在の建物は、1960年に再現したもの
石垣の下で槍を持った門番が控えている。
人を入れないで撮ってみた。
パキスタン人?(右端)の見学
コートを着てる人も多いが、実際この日は大変暖かく1月17日というのに春の陽気だった。
”西南戦争薩軍総攻撃の3日前、明治10年(1877年)2月19日午前11時頃、御天守御廊下付近から出火し、天守閣と本丸御殿(ほんまるごてん)一帯が全焼しました。原因は台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台(ちんだい)自ら火を付けたとする「自焼説」がありますが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため、司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎(こだまげんたろう)が火を付けた、という説が現在では有力になりつつあります。”
現在の建物は、1960年に再現したもの
石垣の下で槍を持った門番が控えている。
人を入れないで撮ってみた。
パキスタン人?(右端)の見学
コートを着てる人も多いが、実際この日は大変暖かく1月17日というのに春の陽気だった。