現代川柳『泥』第三号 川柳をつくる時どんなことにエネルギーを注いでいるか
あたりまえのことを当たりまえの十七音字に、これではなかなか自分自身にも納得のできる川柳にならない。
もちろん、文学作品などという大げさな看板を掲げるつもりは、さらさらないが、さりとて、はてどこかで見かけたことがありそうだでは、川柳と関わっている意味が稀薄になってしまう。
今生きてることの証を、惰性ではなく新鮮なまなざしで、作品にする事が出来たらこれほどの喜びはないであろう。
もちろん、大会や句会での抜けた抜けないの拘りも、確かにひとつの通過点としては、誰でもが経験するのであろう。
しかし、このハードルを越えた現在ほど、川柳を創ることの楽しさに浸っていることはない。
ひとつの作品を、完成させるために、今、一番エネルギーを注いでいること、非常に難しいことなのだが、常にひとつの発見があればいいなと思い、心がけている。
心がけてはいるが、そんな簡単なものではない。
食後のウォーキング時は、目に入ってくる物に出来るだけ神経を集中し、何か新しいことを見つけ出すようにと意識しながらのひとときになる。
収穫は、いつも零なのだが、思わぬ時にひょっいと顔を出して役に立つことがある。
作品の中にいつも新鮮なまなざしをが、自分の今の偽りのない心境である。
又、いつも心がけていることは、表現はやさしく想いは深くで、これはいつまでも変わらない、終始一貫しての自分のテーマでもある。
よく、(さとしの川柳は難しくてよく分らない。)といわれることがあるが、そんなときの自分の川柳は、多分素材を完全に咀嚼出来ていない、未消化のままで発表してしまったからに違いないという反省をしている。
想いだけが先走っていまい、表現がともなっていない自己満足型の川柳から、脱出しなければその都度心するようにしている。
つい最近読んだ本の中、「青空の指きり」に教えられることが沢山あり、非常に大きな
刺激を受けた。
恩田皓充という1996年生まれの中学二年の少年が書いた、童話、詩、俳句が羨ましいくらいの伸びやかさで、眩しいばかりの光を放っている。
我が影にたてがみ潜む春の碁
はこべの野すてられた靴船出する
花ふぶき光が涙こぼしてる
花菖蒲こぼれる夢のかけらかな
カエルの目地球儀二つはまりけり
街を切る冬三日月のナイフかな
春雷や湖の天井髪ゆらす
これらの作品に見られるような、颯爽としたきらめきを、僕はいつも川柳作品に取り組む姿勢を持ち続けたいと思っている。
作品の一句一句に、どんなに小さくてもいい、どんなにささやかでもいい、発見や煌きを感じさせるようにしたい。
川柳という遊びの世界。作品は川柳雑誌、大会、句会を通してひとり歩きを始める。
発表する以上は、ただ発表しただけで読み手には解らなくても言いと言うことになると、ではなぜ発表するのか、発表する必要がないのではという疑問も出てくる。
もちろん、解らないまでも感じる作品に遭遇することはある。絵画や音楽の世界と同じである。
ひとりひとりの価値観、ひとりひとりの世界感によって、価値観は百人百様であることは言うまでもない。
ひとさまの価値観に、泥靴で踏み込もうとは思わない。あくまでも、ひとはひと我は我である。
ひとに解ってもらえて、尚かつ感動を与えたり、共鳴してもらえるような川柳、その為には先ず何よりも自分自身が納得するような、作品でなければならない。
そんなことをいつも心がけながら、ささやかな発見を目指している。
観念や概念、そして惰性に流されないようにするためにも。
あたりまえのことを当たりまえの十七音字に、これではなかなか自分自身にも納得のできる川柳にならない。
もちろん、文学作品などという大げさな看板を掲げるつもりは、さらさらないが、さりとて、はてどこかで見かけたことがありそうだでは、川柳と関わっている意味が稀薄になってしまう。
今生きてることの証を、惰性ではなく新鮮なまなざしで、作品にする事が出来たらこれほどの喜びはないであろう。
もちろん、大会や句会での抜けた抜けないの拘りも、確かにひとつの通過点としては、誰でもが経験するのであろう。
しかし、このハードルを越えた現在ほど、川柳を創ることの楽しさに浸っていることはない。
ひとつの作品を、完成させるために、今、一番エネルギーを注いでいること、非常に難しいことなのだが、常にひとつの発見があればいいなと思い、心がけている。
心がけてはいるが、そんな簡単なものではない。
食後のウォーキング時は、目に入ってくる物に出来るだけ神経を集中し、何か新しいことを見つけ出すようにと意識しながらのひとときになる。
収穫は、いつも零なのだが、思わぬ時にひょっいと顔を出して役に立つことがある。
作品の中にいつも新鮮なまなざしをが、自分の今の偽りのない心境である。
又、いつも心がけていることは、表現はやさしく想いは深くで、これはいつまでも変わらない、終始一貫しての自分のテーマでもある。
よく、(さとしの川柳は難しくてよく分らない。)といわれることがあるが、そんなときの自分の川柳は、多分素材を完全に咀嚼出来ていない、未消化のままで発表してしまったからに違いないという反省をしている。
想いだけが先走っていまい、表現がともなっていない自己満足型の川柳から、脱出しなければその都度心するようにしている。
つい最近読んだ本の中、「青空の指きり」に教えられることが沢山あり、非常に大きな
刺激を受けた。
恩田皓充という1996年生まれの中学二年の少年が書いた、童話、詩、俳句が羨ましいくらいの伸びやかさで、眩しいばかりの光を放っている。
我が影にたてがみ潜む春の碁
はこべの野すてられた靴船出する
花ふぶき光が涙こぼしてる
花菖蒲こぼれる夢のかけらかな
カエルの目地球儀二つはまりけり
街を切る冬三日月のナイフかな
春雷や湖の天井髪ゆらす
これらの作品に見られるような、颯爽としたきらめきを、僕はいつも川柳作品に取り組む姿勢を持ち続けたいと思っている。
作品の一句一句に、どんなに小さくてもいい、どんなにささやかでもいい、発見や煌きを感じさせるようにしたい。
川柳という遊びの世界。作品は川柳雑誌、大会、句会を通してひとり歩きを始める。
発表する以上は、ただ発表しただけで読み手には解らなくても言いと言うことになると、ではなぜ発表するのか、発表する必要がないのではという疑問も出てくる。
もちろん、解らないまでも感じる作品に遭遇することはある。絵画や音楽の世界と同じである。
ひとりひとりの価値観、ひとりひとりの世界感によって、価値観は百人百様であることは言うまでもない。
ひとさまの価値観に、泥靴で踏み込もうとは思わない。あくまでも、ひとはひと我は我である。
ひとに解ってもらえて、尚かつ感動を与えたり、共鳴してもらえるような川柳、その為には先ず何よりも自分自身が納得するような、作品でなければならない。
そんなことをいつも心がけながら、ささやかな発見を目指している。
観念や概念、そして惰性に流されないようにするためにも。