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孤高なる生命の輝き・・・池さとし

2007年10月12日 | 川柳
     現代川柳『泥』第三号 曲線立歩句集「めん玉」鑑賞

 きょくせんリっぽ(1910-)斜里町に生まれる。川柳氷原社に参加。NHK札幌放送局文芸川柳の選者を三年間、HBC放送「日本の綴り」の選者を七年間担当するなど、数多くの選者経歴がある。

 終始一貫「川柳は文学である。」と、主張し続けている、北海道川柳界の大御所、曲線立歩氏の句集「めん玉」の誕生である。
     
           老人蒟蒻 太陽 突き当たる

 「老人蒟蒻」という一個の物体への転化、そこに、外からの凄まじいばかりの凝視と、葛藤する内奥の喩の二面性を、投影させている。

 「老人蒟蒻」としての設定には、当然のように老いの意識が見え隠れする。それでいながらこの作品には、絶望感とか虚無感を感じさせない力強さがある。

 それは、必然的余命へとつながる。さらには、いのちの透明さまで行きつくことになる。

 これが、「太陽と突き当たる」という言語処理に結びつき、不思議なひとつの世界を構成した。

 否、不思議な世界と言う表現は、妥当性を欠くかも知れない。

 作者の凝視している、「太陽と突き当たる」には、人間だれしもが実感する、余命イコールかけがえのない透明ないのちの象徴を、光として結実させたのである。

             日常の彼岸がそれである。

 つまり、日常と非日常という、二つの異空間を見据えて、時間と空間を凝縮して見せたのである。

 明の「生きる」と、暗の「死ぬ」の裂け目に、足を踏み入れて、ひとりの人間として漂っている、老いを意識した自己との内面対決を試みた作品と言えよう。


 ひとつは、光の表の部分にあたる希望や挑戦などのプラス思考がそれであり、もうひとつは、全く逆にあたるマイナス思考である。

 「老人蒟蒻」と言い、「太陽に突き当たる」と言い切る強靭さは、まさしく孤高である。

 生命体の輝きを内在する作品の重厚性を、まざまざと見せつけられた思いがする。
コメント
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