現代川柳『泥』第三号 大会・句会での課題について
川柳は孤独な文学である。
誰に教わるものでもなく、巷に溢れる川柳誌の中から川柳を読み、感じ、そして柳論を読んで考えて、川柳のなんたるかを、自ら会得するものである。
その積み重ねが、いわゆる研鑚であろう。それぞれの吟社に指導的立場の人がいれば、暗黙のうちに得るものがあるに違いないが、それにしても、感性の錆付いた人間、何ものにも感動しない、という人間も少なくない。
作句上一番大切とされる感動がなければ、川柳人としての資質を問われることにもなろう。
加齢と共に鈍化してゆく脳細胞を叩いて、感性をゆさぶらなければ、と思うこの頃である。しかし、どんな優秀な指導者がいたとしても、学ぶべき努力の無い人間はいかんせん「猫に小判」に等しい。そうならぬためにも、小さなことにも感動し、感性を磨かなければならない。
毎月、行われる例句会も、どこかマンネリ化して魅力に乏しい。因は課題にないだろうか。イメージの広がりを誘うもの、ありふれた題でないものがいいが、どうも毎月、イージーに過ぎているような気がしてならない。
仲良しごっこ、お楽しみごっこでは、新人の育成には程遠いことだろう。川柳の啓蒙も魅力あってこそを、肝に銘じていきたい。
何か名案はないものか。
いま川柳界は、各種大会が華ざかりである。
大会は祭りの場、秀句と出合う場、そして選者が試される場である。
北海道大会も、数年前から合点制がなくなって、一句一姿がすっくと立つようになったのは、大きな進展であろうか。しかし、そろそろマンネリの様相も呈してきた。
風土性がなく、独自の個性も乏しく、彩りが少ない。
優秀なプランナーはいないものか。川柳界に旋風を巻き起こすような新しい風がほしい。
川柳人の中には、比較的課題否定論者が多い。
雑詠は、思いを表白する。課題は、作るべくして作るいわゆる作られたもの、という意識なのだろうか。
しかし、寄りかかるものがあれば、初心者でずぶの素人でも、五七五の口語体はたちまち出来るのは、題の効用だとも思う。
昨年、どこかの大会で「百歳」の課題がでた。これは耳からきいたことなので、大会名も作者名も失念したが、
特選句 百歳の性欲ただいま微調整
高齢化社会の中にあって、この百歳の心意気には肝をつぶした。この心意気がある限り、このパフォーマンスがある限り、まだまだ加齢なんのそのである。
課題もまた愉しからずや・・・である。
川柳は孤独な文学である。
誰に教わるものでもなく、巷に溢れる川柳誌の中から川柳を読み、感じ、そして柳論を読んで考えて、川柳のなんたるかを、自ら会得するものである。
その積み重ねが、いわゆる研鑚であろう。それぞれの吟社に指導的立場の人がいれば、暗黙のうちに得るものがあるに違いないが、それにしても、感性の錆付いた人間、何ものにも感動しない、という人間も少なくない。
作句上一番大切とされる感動がなければ、川柳人としての資質を問われることにもなろう。
加齢と共に鈍化してゆく脳細胞を叩いて、感性をゆさぶらなければ、と思うこの頃である。しかし、どんな優秀な指導者がいたとしても、学ぶべき努力の無い人間はいかんせん「猫に小判」に等しい。そうならぬためにも、小さなことにも感動し、感性を磨かなければならない。
毎月、行われる例句会も、どこかマンネリ化して魅力に乏しい。因は課題にないだろうか。イメージの広がりを誘うもの、ありふれた題でないものがいいが、どうも毎月、イージーに過ぎているような気がしてならない。
仲良しごっこ、お楽しみごっこでは、新人の育成には程遠いことだろう。川柳の啓蒙も魅力あってこそを、肝に銘じていきたい。
何か名案はないものか。
いま川柳界は、各種大会が華ざかりである。
大会は祭りの場、秀句と出合う場、そして選者が試される場である。
北海道大会も、数年前から合点制がなくなって、一句一姿がすっくと立つようになったのは、大きな進展であろうか。しかし、そろそろマンネリの様相も呈してきた。
風土性がなく、独自の個性も乏しく、彩りが少ない。
優秀なプランナーはいないものか。川柳界に旋風を巻き起こすような新しい風がほしい。
川柳人の中には、比較的課題否定論者が多い。
雑詠は、思いを表白する。課題は、作るべくして作るいわゆる作られたもの、という意識なのだろうか。
しかし、寄りかかるものがあれば、初心者でずぶの素人でも、五七五の口語体はたちまち出来るのは、題の効用だとも思う。
昨年、どこかの大会で「百歳」の課題がでた。これは耳からきいたことなので、大会名も作者名も失念したが、
特選句 百歳の性欲ただいま微調整
高齢化社会の中にあって、この百歳の心意気には肝をつぶした。この心意気がある限り、このパフォーマンスがある限り、まだまだ加齢なんのそのである。
課題もまた愉しからずや・・・である。