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祭りの場・・・青葉テイ子

2007年10月11日 | 川柳
      現代川柳『泥』第三号 大会・句会での課題について

 川柳は孤独な文学である。

 誰に教わるものでもなく、巷に溢れる川柳誌の中から川柳を読み、感じ、そして柳論を読んで考えて、川柳のなんたるかを、自ら会得するものである。

 その積み重ねが、いわゆる研鑚であろう。それぞれの吟社に指導的立場の人がいれば、暗黙のうちに得るものがあるに違いないが、それにしても、感性の錆付いた人間、何ものにも感動しない、という人間も少なくない。

 作句上一番大切とされる感動がなければ、川柳人としての資質を問われることにもなろう。

 加齢と共に鈍化してゆく脳細胞を叩いて、感性をゆさぶらなければ、と思うこの頃である。しかし、どんな優秀な指導者がいたとしても、学ぶべき努力の無い人間はいかんせん「猫に小判」に等しい。そうならぬためにも、小さなことにも感動し、感性を磨かなければならない。

 毎月、行われる例句会も、どこかマンネリ化して魅力に乏しい。因は課題にないだろうか。イメージの広がりを誘うもの、ありふれた題でないものがいいが、どうも毎月、イージーに過ぎているような気がしてならない。

 仲良しごっこ、お楽しみごっこでは、新人の育成には程遠いことだろう。川柳の啓蒙も魅力あってこそを、肝に銘じていきたい。

何か名案はないものか。

 いま川柳界は、各種大会が華ざかりである。
 大会は祭りの場、秀句と出合う場、そして選者が試される場である。

 北海道大会も、数年前から合点制がなくなって、一句一姿がすっくと立つようになったのは、大きな進展であろうか。しかし、そろそろマンネリの様相も呈してきた。

風土性がなく、独自の個性も乏しく、彩りが少ない。

 優秀なプランナーはいないものか。川柳界に旋風を巻き起こすような新しい風がほしい。

 川柳人の中には、比較的課題否定論者が多い。

 雑詠は、思いを表白する。課題は、作るべくして作るいわゆる作られたもの、という意識なのだろうか。

 しかし、寄りかかるものがあれば、初心者でずぶの素人でも、五七五の口語体はたちまち出来るのは、題の効用だとも思う。

 昨年、どこかの大会で「百歳」の課題がでた。これは耳からきいたことなので、大会名も作者名も失念したが、

           特選句  百歳の性欲ただいま微調整
 
 高齢化社会の中にあって、この百歳の心意気には肝をつぶした。この心意気がある限り、このパフォーマンスがある限り、まだまだ加齢なんのそのである。

 課題もまた愉しからずや・・・である。
コメント
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